前々から「物理学者はダメだダメだ」といろんなところで書いていた千代島氏が、とうとうこんなタイトルで本書いてしまいまった。中身はこれまで書いていたことに、いろんな科学者実名入りの批判をちりばめて書いているもの。 これまでの著書については他のところでも反論したけど、この機会にこの本の内容にそって、千代島氏の主張に反論しとこう。
冒頭いきなり
なんて書いてあって、「そりゃえらいこっちゃ」とびっくりする。いったいその物理学そのものの否定って何やねん、と思って読み進めていくと次に
と書いてある。ところがタイムマシンのようなものは時間の経過を無視するのだから、タイムマシンなんてものを考えている物理学者も、それに対して反論しない物理学者も物理学が否定されてもかまわんと思っているんだろう、と話が続くわけだ。なんじゃそら。 まぁ千代島氏は自身の誤解により、ソーンらのタイムマシンの理論を間違いだと思いこんでいるので、こういう結論になるのだろう。しかし、たとえ五十六億七千万歩下がってソーンが間違いだったとしてもだ。
とまで言われなならんようなことだろうか。たいていの物理学者(素粒子、物性、原子核、宇宙線、その他タイムマシンとは何の関係もない分野が専門である人の方が圧倒的に多い)は、ソーンが何言ったか知らないか、何言ってても知ったこっちゃないと思うのだが。
さて、千代島氏がなぜソーンのタイムマシン理論が間違いと考えているかというのが、この後長々と説明されている。ソーンのタイムマシンというのはワームホールを使ったもので、ワームホールの口(マウス)の片方を旅行させて、浦島効果を使って二つの口の間に時間差をつける、というものだ。ソーンの本の説明では移動するワームホールの口の近くにはカロリーがおり、移動しないワームホールの口の近くにソーン自身がいる。ここでカロリーとソーンはそれぞれの近くにあるワームホールの口に手をつっこんで握手している。カロリーがワームホールとともに旅行して十年後地球に帰ってくる。その時、カロリーの時間では12時間しかたってない。帰ってきたカロリーは、まだワームホールの口に手をつっこんで誰かと握手している。この誰かはもちろん(まだ若い)ソーン自身で、十年後のソーンがそのワームホールを覗けば、若い自分がカロリーと握手しているのが見える、というわけでタイムマシンができたよ、というわけだ。さて千代島氏はこれにどう反論するか。
実際、こういう、千代島氏と間違いをする人は多い。ソーンはそういう勘違いをさせないようにと配慮して、居間のソーンとカロリーがワームホールを通じてずっと握手している、という設定にしているのだが、千代島氏にはこんな配慮は通じなかったようだ。千代島氏は
と書いている。これはそうだろう。ワームホールを通り抜けたからと言って時計が逆流するわけではない。しかしだからといって、
という結論には、全然ならない。
ここでカロリーがずっと居間にいるソーンと握手を続けている、ということを思い起こして欲しい。その握手しているカロリーの手は12時間、握手を続けている。握手相手のソーンは? もちろん12時間しか握手をしていない。そうでないとしたら、ワームホールの二つの口で、時間が不連続になっていることになる。ソーンはもちろん、時間が連続になるようにワームホール解を作っている。
居間で待っていたソーンは十年たっている(彼は12時間カロリーと握手した後、ワームホールの口から自分が覗くのを認める、という経験をすでにしているはずだ)。よって、居間で待っていたソーンがワームホールを通り抜ければ、カロリーの出発から12時間後の自分自身に出会えるはずだ。だって、カロリーの手は12時間しか握手してないんだから。
実は上では省略したが、千代島氏はソーンが二人いるということが理解できない。というか、そうなった時点で矛盾だ、と決めつけてしまうのである。千代島氏はさかんに、「ソーンの時計」と「カロリーの時計」は違う、と力説する。立場の違いに気をつけろ、と力説しながら、「ずっと居間にいたソーン」と「帰ってきたカロリーの握手相手であるソーン」の二つの立場の違いには全然気をつけてくれないのだ。
ところで一般相対論というのは(特殊相対論でもそうだが)時間がたくさんあるということを許す理論になっている。特に大事なのはローカルな時間、つまり場所ごとに時間が定義されているということ、そしてある場所ととなりの場所の時間が不連続になることは絶対ないようにできているということだ。ワームホールは遠く離れた場所を結ぶものだが、当然その二つの口の間で時間は連続につながってないといけない。だからカロリーの時間と、ワームホールを通じて握手しているソーンの時間は同じになる。その結果「カロリーの時間」=「ワームホールの向こう側にいるソーンの時間」と「居間にいるソーンの時間」はずれが生じて、タイムマシンが完成する、というわけだ。一般相対論で大事な、ローカルな時間という概念を尊重して計算した結果、タイムマシンが生まれる、というのがソーンのタイムマシンの面白いところである。ところが千代島氏は、
と断言してしまうのだ。この自信はどこから来るの。「あんた、計算してみたことあるんでっか」と聞いてみたいものだ。
念の為にもう一つ書いておくと、ソーン自身、およびいろんな物理学者(日本人含む)がこのタイムマシンにはいろんな問題があることを認めている。エキゾチック物質が必要だとか、量子力学的に不安定ではないか、とかだ(誰も反論してないと書いた千代島氏はここでも間違っている)。そういう意味で物理学者が主張するタイムマシンの可能性は「エキゾチック物質が必要であるという問題が解決したら」等、いろんな条件つきのものであって、普通に考えるとタイムマシンはできないという点ではたいていの物理学者の見解は一致している。ただし、誰も千代島氏の主張のような幼稚な理由で拒否してはいない。
次に千代島氏が文句をつけるのはホーキングである。ホーキングが
と書いていることにかみつき、
と、本末転倒だと言う。これはホーキングにも多少責任があって、虚時間を用いる理由を自分の一般向け科学書にあまりちゃんと書いてない。実はファインマンの経歴総和法で虚時間を使うというのは量子力学でトンネル効果を計算する時にはよく使う手なのである。つまり、ホーキングは宇宙の始まりについて量子力学的トンネル効果が起こったと考えれば特異点がない、と主張しているわけだ。ちなみにこういうことは説明がめんどくさいからかすっとばしている本が確かに多いが、書いてある本にはちゃんと書いてある。千代島氏は何の根拠もなしに虚時間といえばいいと思ってるのはまるで宗教のようだ、と批判しているのだが、別に根拠なしに信じ込んでいるわけでは全然ない。
ついでに言うと、ホーキングの虚時間形式を使った宇宙の生成の話自体は、日本物理学会の物理学者みんなが信じているわけでもなんでもない。さっきのタイムマシンと同じで、ほとんどの人はそういう話題には無関心なのではないかと思う。
竹内均批判というより雑誌「ニュートン」批判だね。まず「ニュートン」にソーンのタイムマシンに関する記事が載ったことについて批判。これについては第一章と同じ話。それにしてもまるっきり同じ話を方向や書き方は違えどよく書くなぁ。執念なのか、それともあっちこっちに書いた原稿を後で切り貼りしたせいでこうなっちゃったのか。
この際だから、こっちもくどくもう一回、千代島氏の説明がどう変か説明しておこう。千代島氏が紹介している、「ニュートン」に載っていたというタイムマシンの作り方(これは二間瀬敏史氏の書いた記事らしい)は、まずワームホールを持ってくる。左の図はワームホールの穴AとBの運動を表す図で、上下方向は時間、左右方向が空間である。ワームホールAとBは瞬時に移動できるようになっていて、図の0と書いてある時刻(0時)にはAに入ると瞬時にBから出てくるようになっているとしている。この後穴Bの方(図で左側)を光速で移動させ、また元の位置に戻すと、ウラシマ効果によって時間がずれ、Bが4時の時にAが6時というふうに時間にずれが生じる。ここまでは千代島氏も認めているようだ(実際のところ千代島氏は相対論自体もおかしいという話をしているので、認めるというのは変といえば変なのだが、ウラシマ効果は実験によって確かめられているからだろうか)。図に書いてある緑の矢印は、Aを出発し、普通に航行してBに飛び込む宇宙船の軌跡。青の矢印はワームホールの中を通り抜けた結果。実際にはこの位置を通るのではなく、ワームホールの中(図では表せてない、長さ0の部分)を通る。ちなみにこの図は説明の都合上私が書いたもので、本書にはない。
さて問題は、このずれた時計をどう解釈するか、ということである。ソーン=二間瀬の説明では、Bの5時に穴Bに飛び込むと、AとBの同時刻がつながっているので、Aにとっての5時に、穴Aから飛び出てくる。これは過去への旅行だ、というわけだ。これに対する千代島氏の反論はこうだ。
つまり、ウラシマ効果でBの方が遅くなっているとかそういうこととは関係なしに、「7時に入ったんだから7時に出る」と主張しているわけだ。でもそれじゃ、ワームホールの口Bを動かしていることは何の効果も示してない、ということになる。果たしてほんとにそうなの??
千代島氏の誤解で決定的なのは、AとBという「二つのワームホールの口」が、実は同一点であるということに気付いてない、ということだ。だから、上の図に書き込まれている数字を、別々の時計であるから途中ですり替えてはいかん、ということを言う。千代島氏はさかんに、この二つの時計は違う時計だ違う時計だと力説するのである。
ところがこの二つの時計はワームホールの口に位置している、一つの時計なのである。ワームホールの類似物であるドラえもんのどこでもドアで考えれば、穴Aはどこでもドアの表側であり、穴Bはどこでもドアの裏側なのだ。そしてドアそのものに時計が一個、表からも裏からも取りつけられていると思えばよい。 表からも裏からも見える一つの時計が、動いている裏側では遅れなくてはいけない、というところにこのタイムマシンの面白みがある。そしてそれが一つの時計である以上、裏(口B)から見て5時になっている時刻にBに入れば、表(口A)から見て5時の時刻に出てこなければおかしい。まだうまく理解できないという人は、図の二つの線の片っ方にドラえもんの前から見た姿を、もう片っ方にドラえもんの後ろからみた姿を思い浮かべ、Bの方のドラえもんだけは(ウラシマ効果のため)スローモーションで動いているところを想像してみて欲しい。そのドラえもんが5時間歌を歌いつづけたとしたら、Aの方のドラえもんの方が先に歌いおわる。しかし、AのドラえもんとBのドラえもんは同一人物なのである。これによって時間のずれが生じる。
そんな馬鹿なことがあるか、と言うかもしれないが、ワームホールというのはそういうものである。それが気にいらないなら、ワームホールの存在自体を否定しなくてはいけない。ところが、千代島氏はワームホールの存在自体を否定するのでなく、「ワームホールがあったとしてもタイムマシンはできない」と主張しているのである。そりゃ、千代島氏が主張するようなワームホール、つまり二つの時計を持っていてその時計がずれても実際のワームホールの「何時にAに入ったら何時にBから出てくる」という関係は変化しないようなワームホールなら、タイムマシンはできない。しかし、ソーンのワームホールはそういうふうにできていないのである。もちろん、ソーンは勝手にそういうことにしているのではなく、一般相対論に基づいて計算されたワームホールならそうなる、という根拠を数式の形で表現している。
もちろん、これに対して「ワームホールのBだけ(どこでもドアの裏だけ)を動かせるのか?」という批判はあり得る。しかし千代島氏は、そんなことは批判すること自体無意味だという。たとえ動かせたとしてもタイムマシンにならないのはもうわかっているから、ということである。
さて、この後もまだタイムマシン批判が続く。まず前にも書いた「因果律が壊れたら物理が壊れて困るだろう、どうしてくれるんだ」という話。次に親殺しのパラドックスに代表される、タイムパラドックスをどうしてくれるんだ、という話。しかしタイムパラドックスはどうするんだ、という話は物理学者たちもいろいろと考えている最中なのである。だから、「ちゃんと答えろ」と言われても「答えが出るまで待ちなはれ」としか言い様がないだろう。まさか全部答えが出るまで論文も本も書くなと言うんじゃんかろうな(言いそうだけど)。ちなみにSFでおなじみパラレルワールドを使う方法は、他の宇宙なんて不可知なんだからナンセンス、の一言で片づけられてます。
また