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千代島雅「双子のパラドックスの論理」 

2002年4月30日初版発行 晃洋書房 ISBN4-7710-1361-6

 哲学者と会話するのは難しい。いや実際には哲学者と会話したことは一度もない。それに哲学者が書いた本もそうたくさん読んだわけじゃない。だけどまぁその少ない経験の中でもダントツに会話しにくそうな人だよね、この千代島って人。そういうわけで、この書評も、本の内容全部を相手にしようという気はあんまりない。

 というわけで、ここでは第六章「なぜ従来の理論は失敗したのか」を中心に千代島氏の主張に反論していこう。

 この章では、物理学者による説明というのが次々とダメ出しされているのだが、このダメ出しは基本的に

「二人の運動は対称的でない、したがって時間の遅れは対称的でない」という主張は、全く無意味である。

というワンパターンなのである。これでもかこれでもかと「物理学者による説明」を出してきては同じパターンで“撃破”していく千代島氏の奮闘ぶりは、執念すら感じさせる。ほんと、「よくこうも同じパターンの繰り返しをくどくどと本に書けるなぁ」とその粘り腰に感服させられる。

 たとえば双子のパラドックスを説明しようとすると、物理学者はたいてい、まず左のような図を書くだろう。そして特殊相対論の立場にのっとって、兄の時計の方が弟の時計よりも遅く進む、という計算をしてみせるだろう。ところが、もうこういう図を書いただけで、後どういうありがたい説明があろうが千代島氏は納得しない。この図では兄の世界線が曲り、弟の世界線がまっすぐになっている。つまり兄が加速していることは自明のこととして扱われている。しかし、なぜ兄が加速しているとわかるのだ、そこが知りたいのにそういう図を書いてしまったらもうだめだ、というわけだ。

 こういう考え方、この部分まではある程度理解できる。千代島氏は、例えば上と同じ現象を次の図のように考えてはだめな理由を具体的に示せ、というわけだ。兄が止まっているように図を書いたとしたら、こういう図が書ける。そしてこの図で考えて特殊相対論で計算すれば、弟の方の時間が遅れるはずだ、と言うわけだ。

 通常、物理学者なら「兄は図の曲る時点で加速度運動によるみかけの力を感じる。だから対称でない」と言いたくなるのだが、千代島氏は、こういう議論を

(1)ロケットだけが加速度運動をする。
(2)したがって、ロケットだけに「みかけの力」が発生する。
(3)それゆえ、ロケットだけが加速度運動をする(=ロケットの時計だけが遅れる)

 これを見てすぐわかるように、(1)「ロケットだけが加速運動をする」という前提から出発して、(3)「ロケットだけが加速度運動をする」という結論を導き出している。
 言うまでもなく、これは全く無意味な悪しき「循環」である。というより、バカバカしい「同語反復」である。

という(上に書いたワンパターンの)批判で、“撃沈”されてしまうわけだ。

 千代島氏自身の答えはこうだ。

宇宙に存在する多くの星を考慮に入れることによって「地球の立場とロケットの立場は加速度運動のとらえ方が異なる(対照的ではない)」ということが明らかになった。

 要は兄と弟の二つしか考えに入れないから兄の立場と弟の立場の区別がつかないのだ、もしこの図に地球だの火星だの太陽だのその他たくさんの星だのを書き込めば、弟と同じような運動をしている物体の方が圧倒的に多いから、非対称性がわかる。

 と、ここまでで話が終わると、まるで千代島理論の方が正しいみたいだ。ここまで読んでくれた人はわかると思うけど、要は「どっちが加速度系か」ということがちゃんとわかれば、千代島氏は納得する(らしい/はずだ)。そして千代島氏は「周りの星の動きを見ればわかるじゃん」というのでは納得し、「みかけの力を感じるじゃん」では納得しないわけだ。

 私は「みかけの力」なら納得するし「周りの動きを見ろ」なら納得しない。千代島氏とこのような差が出る理由はある。以下で説明しよう。

 千代島氏は、みかけの力が発生するのは加速度運動があるからだということで、「みかけの力」と言った瞬間、「加速度運動が前提になっている」と批判する。ところがそうじゃないのだ。アインシュタイン的に考えるからには、みかけの力が働いたとしても二つの解釈がありえる。「私が加速度運動しているからだ」という考えと「ここが重力場内にあるからだ」という考えだ。この二つのどっちであるかは区別できない。それが等価原理というものだ。大事なことは千代島氏が「みかけの力」と呼ぶ力は兄にとっては測定可能な量である、ということである(弟にはこういう力はないが、0だと測定するという意味ではもちろん測定可能)。そして、その測定可能な力を詳細に調べることで、(A)「自分が加速運動しているとしたらどんな加速度運動をしているか」あるいは(B)「自分が重力場内にいるとしたらどんな重力場内にいるか」を決定できる。念を押しておくが私は、(A)か(B)かのどちらであるかが決定できると言っているのではない。(A)だと思えば加速度が計算できるし、(B)だと思えば重力場が計算できる、と言っているのである。(A)の立場が正しいのか(B)の立場が正しいのか、ということは決定できない、というよりも聞く意味がない。どっちだっていい(まぁ、普通の物理常識的には(A)の立場に立つが)。(A)と(B)は座標変換でつながる。本質的には、(A)と(B)の違いは直交座標で記述するかと極座標で記述するかの違いと同じようなものだ。

 くどいようだがここでもう一つ強調しておく。「兄が力を感じる」というのは物理現象である。物理学者が(あるいは千代島氏が)加速度運動をしていると考えたから出現するわけではない。こういう実験をやれば必然的に兄は力を感じるのである。つまり、「力を感じた」→「原因は何か」→「加速度または重力場」というのが正しい論理の順番である。千代島氏は「加速度運動がある」→「みかけの力が発生する」→「だから加速度運動だ」と論理を進ませるので、物理学者は循環論法に陥っている、と批判するわけだが、そういう順序で物を考えてるのは、千代島氏の頭の中にある物理学者であって、それは現実の物理学者とは何の関係もないのである。

(2002年4月20日追記)

 実は千代島氏も、「重力場によってみかけの力が現れる」という考え方があることは知っている。ところがこれもまた“撃沈”しているのだ。以下のような理由で。

地球の弟にとってロケットが加速度運動をしているのであれば、逆にロケットの兄にとって地球こそ加速度運動をしているように考えることができる。ただし、その場合、「地球の加速度運動の原因」として「大きな物体の重力の作用」を想定しなければならない。

 この後すぐに

これはあくまでも「手掛かり」であるにすぎない。

と書いて千代島流「正解」の方に話が移ってしまうのだが、要は千代島氏は「大きな物体」なんてものを考えなくてはいけないという点でこの話をrejectできたと思っているのだろう。
 残念でした。これは重力場という言葉をいい加減に扱っているせいで起こる誤解なのである。実は上の文章の中にある「地球の加速度運動の原因」としては、大きな物体の重力の作用なんていらないのである。あたりまえだ。上の(A)記述では、兄が加速しているだけのことだから、大きな物体なんてない。(B)記述と(A)記述は物理的に等価(単なる座標変換)なんだから、(A)記述では存在しない巨大質量が(B)記述で忽然と出現するはずがないではないか。一般相対論は、ちゃんとそういうふうにできている。千代島氏はこういう一般相対論的計算の詳細をおそらく知らないだろう。少なくとも、「一般相対論が千代島氏が主張しているような理論であったとしたら物理的対象(大きな質量)が記述の違いで現れたり消えたりするヘンチクリンな理論だということになってしまう」ということが実感できるほどには、一般相対論に精通してないことは確かだ。

 その程度にしか一般相対論を理解してない人がえらそうに双子のパラドックスを語ろうとするところに、最初から無理があったのだ。

 同じことの繰り返しになるが、私と千代島氏とに差が出る理由を明確にしよう。千代島氏の言う「みかけの力」は測定可能量である。そしてその測定可能量だけから、兄は自分の時計と地球にいる弟との間に時間差ができることを説明できる。(A)解釈なら一般相対論はいらない。(B)解釈なら一般相対論が必要だ。よって計算のめんどくささに差はあるが、とにかく「自分が加速したのか弟が加速したのか」を決める必要はない。「自分が加速した」と考える(A)解釈の方が計算が簡単なだけである。どちらの場合も「大きな物体」なんて必要ない。とにかく「測定可能量から計算できる」というのが物理屋にとっては大きい。物理学者ならば、計算可能なものによって全てが決定できる方が嬉しいに決まっている。

 それにたいして、周りの物体の動きを見ろ、と言われてもそれだけでは物理学者は納得できないのである。じゃあ周りの物体の半分が兄と同じ運動をして、半分が弟と同じ運動をしたらどうなるのだ?
 あるいは全宇宙のうち3割が兄と同じ運動をし、7割が弟と同じ運動をしたら??5割5割であっても、兄と同じ運動をする5割は近くにあって、弟と同じ運動をする5割は遠くにあったとしたら???
 周りの物体の動きで加速度を持っているのかどっちがわかる、という考え方をよしとするならば、上のような疑問に対してちゃんと計算できる方法を作ってから言って欲しい。千代島氏が「正解」とするこの考え方は、全然定量的考察に耐えない。物理学者ならば、定量的考察が不可能な“理論”など、納得できないに決まっている。

 物理をよく知っている人なら、ここらへんの話を聞けばマッハの原理を思い出し、「周りの物体の運動で相対的に加速度が決まる、という考え方、物理屋もするんじゃないの?」と言うかもしれない。千代島氏がそこまでつっこんでいるんなら、まだいいんだけどね。実際、この全然定量的でない結論が出てきたと思ったら、さっさとこの本は終わってしまうのである。そして結局、この本には最後まで私にとっては面白い部分がなく、ただ「あ〜あ」と溜め息をついてしまうのであった。