ホームに戻る

いろもの書評indexへ戻る

(ネタバレ注意)小林泰三「目を擦る女」 

2003年9月15日初版発行 早川書房 ISBN4-15-030736-9


 ずいぶん仮想世界ネタが多いな、と思ったら作者自ら「未公開実験」の中で「どうでもいいけど、仮想世界ネタばっかりだと、そのうちに飽きられるぞ」と登場人物にしゃべらせている(^_^;)。あえてやっているんならしょうがないなぁ。
 以下、感想は主に最後の2編に対して。

「目を擦る女」

 これはSFですかホラーですかといえば私が読むとSFになってしまうのだなぁ。

「超限探偵Σ」

 途中まで読んだ時点で、てっきり「犯人」は「小林泰三」か、でなかったら「読者」だろうと思った(^_^;)。というわけで、予想よりは遥かにまともな解答だった。

「脳喰い」

 ああ、ワーストコンタクトネタだ(^_^;)。

「空からの風がやむ時」

 こんな短編集の中に入っていると、こっちの方が「普通の話」に思えてくるなぁ。

「刻印」

 蚊とセックスするのは強引に過ぎるが(^_^;)、まぁ大法螺話として読むべきであろう。

「未公開実験」

 タイムトラベルものを読んでいてよくひっかかる言葉がある。「歴史が改変される」とか「改変された」とかである。「」とか「」とか言うためには、いわゆるひとつの時間の流れのほかに、この前後を区別する「大いなる時間」が流れていなくてはならない。歴史改変ものの多くではこの「大いなる時間」が無自覚に(あるいはあえて読者に気づかれないようにこっそりと)使われているんだが、そのことに言及ないままに使われているのが多くて、たいへん気持ちが悪い。
 この話では「シミュレーションの中の時間」と「外の時間」という形で「普通の時間」と「大いなる時間」をちゃんと区別して描いている。そこが気持ち悪くなくてよい。
 ところがこの話で面白い・・・というかドタバタ感をあおっているのは、タイムマシン、じゃなかったターイムマスィーーンの発明者である丸鋸自身がこの「大いなる時間」の流れに気づいてないで(いや気づいているんだがなぜか碇や鰒や語り手にそれが作用しないと思っているというべきか)無駄なことを繰り返していることだろうな。せっかく気持ちよい設定を用意しておきながら、そこに物分りの悪い人間を配置してドタバタを演じさせるというのはある意味もったいないというか贅沢な設定の使い方だというか。
 

「予め予定されている明日」

 たくさんの算盤人が分担して計算をしている、というのは「臨界のパラドックス」(ケヴィン・アンダースン&ダグ・ビースン)の中で、マンハッタン計画に従事している、コンピュータがわりに計算をやっている人たちのイメージだな。その中の一人がわざと計算を間違えて、結果が波及してとんでもないことに、というところまで一緒。
 ちなみに算盤人のいる時空はω次元なんだそうだが、数学でωを無限の意味に使うこともあるので、それを使ったのかな。しかしそうだとすると、仮想世界の中の電子計算機は算盤人のいる世界よりも単純な世界にいるわけだから、計算力がいいってのは変な話・・・ってこんなところにつっこんでもしょうがないか。
 仮想現実の中の電子計算機に計算させるという話になった時、「こりゃまるでWindowsマシンの上で走っているマッキントッシュエミューレーターの中でさらにPentiumエミュレーターが走っているみたいな話だなぁ、えらい非効率だ」と思ってたが、今の場合算盤人はたくさんいるから、自分の仕事を他人に(それも非効率なやり方で)肩代わりさせたことになっている。作中では「君が楽をした分、同じだけ誰かの計算量が増えていただけだ」ということになっているが、どう考えても同じだけじゃなく、圧倒的に増えているだろう。「むしろ・・・計算量は増えてしまったかもしれない」どころじゃないと思う。
 最後にはラプラスの魔的決定論により「計算しなくても世界は存在している」ということになり、ケムロは計算間違いによって新しい世界を創造した、ということになるが、そうすると存在する世界と存在しない世界の差はなんだろ。