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いろもの書評・感想:一般向け科学書

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柳田理科雄「空想科学読本4」 

2002年4月10日初版発行 メディアファクトリー ISBN4-8401-0549-9

 このシリーズもよく続くものだ。まず後書きから読み始めたが、そのタイトルが「間違えてばかりいる」。えらい気弱になっているものだ。このシリーズ、確かに間違いは多い。というわけで批判が多いみたいだが、私は間違えていること自体は「まぁええやん」という程度にしか思ってない。実際、むしろ柳田理科雄の本の間違いで気になる部分というのは、アニメや特撮番組の設定を紹介している部分に間違いが多いこと。科学的間違いについてはこれがこの人の芸風なんだと思ってた。だから後書きで間違いに気付いて落ち込んでいると書いてあるところは実に意外であった。むしろ「4」まできてやっと「間違えてばかりいる」という反省が入るんかい、と驚く。最初から多少のデタラメは愛敬のうち、と思ってやってたわけではなかったんか。このあとがきの中に、編集者の言葉として、

「間違いが発見された!? それがどうした。お前の本の内容が正しいかどうかなんて、気にしてるヤツが世の中にいるのか?」

というのが書いてあるのだが、実にその通りだと思う。柳田理科雄も塾の先生をしていたようだが、私も8年ぐらい、予備校や塾の先生をして食ってた。その時、学生の食いつきをよくするために、アニメや特撮番組なんかの設定の話を「〜って話があるけど、これって物理的におかしいんだよね」みたいな話はよくした。その時の経験から、こういう時には別に厳密に正しい必要はなくて、「そういう考え方もある」という方向を示すだけでいいと思っている。それで学生が興味や親しみを持ってくれればいいんだから。むしろ学生から「先生、それは考え過ぎやで。おかしいわ」という反応がかえってくるぐらいのデタラメさ加減でちょうどいいのである。もちろん、学生に間違いを指摘された時はちゃんと認めて「しまったしまった」というぐらい、気持ちに余裕を持ってなきゃいかんけど。
 そういうわけなんで、この書評のタイトルを見て「あ、いろ物が柳田理科雄につっこみ入れようと思っているな」と期待した人。すんませんが別につっこみ入れたりしません。入れようと思えば入れられるだろうけど、芸風なんだしいいじゃん、と思うので。

 今回の「4」については、ちょっと「科学読本」ってタイトルから離れているものも入っているなぁ、と思った。エヴァンゲリオンを取り上げているから何について話すんかいな、と思ったらセカンドインパクトの時に人類が半分も死んだんなら、お墓作るのたいへんだったろうなー、というだけの話だったり。「ド根性ガエル」についてどんなふうにつぶされたらカエルがああいう形になるか、なんて考察しているところはあほらしさにへなへなきたりしたけど。ようやるわ(3割誉め言葉、7割ほんとにあきれている)。こういう漫画的「お約束」の部分に生真面目につっこみいれるなよ、とも思うが、これも芸風なんだろうなぁ。


青山拓「タイムトラベルの哲学」

2002年1月15日初版発行 講談社 ISBN4-06-269163-9

 あーこれも読みにくい本だったなぁ。私が疑問にも感じないところを長々と蘊蓄傾けてみたり、こっちがすごく気になるところをさっと流してみたり、この著者と私は着眼点が違い過ぎるらしい。まぁ着眼点が全く同じ人の本なんてのはまずないし、あったとしても読む価値なしなしだけど、あんまり違い過ぎてもやっぱり困るな。これについては「擬似科学」の方に分類すべきかどうか、だいぶ迷ったよ。

 さて、多少なりとも私が納得がいった部分は、著者が時間モデルなるものを次の3種類に分類していたところぐらいだ。

可能性の単線モデル 可能性の分岐モデル
実在性の単線モデル <A>単線的決定論 <B>動的モデル
実在性の分岐モデル <C>多世界解釈

 実在性による分類ってのはこの世が分裂するかそうでないかで分けている。可能性の方は実際に分裂するかどうかではなくて、分岐する可能性があるかどうかで分けている。「一つの可能性しかなく、当然宇宙が分岐したりしない」のが<A>の単線的決定論であって、実際に宇宙が分岐する(したがって可能性もたくさんある)のが<C>の多世界解釈(これは量子力学の多世界解釈とは一応別物として考えるべきだろう)。作者によると、タイムパラドックスが起こる可能性があるのは<B>だけである。<A>なら、過去は改変不可能ということだから起こりようがない。<C>なら、どんどんパラレルワールドができることでタイムパラドックスは回避される。ここまでは理屈としてよくわかる。分類もすっきりしているし。

 しかしこの後の著者の考察は私にはさっぱりわからないのだ。<A>モデルではサイコロで1が10回続けて出なかった後の1の出る確率は6分の1より大きいはずだとか言い出したりする。どうやら我々のなれ親しんでいる確率とは全然違うものを語っていることは間違いないのだが。

 後日追記:似たような話として、「ゲーム研究室・確率理論」ってのがありますよ、と教えてもらった。これはなかなか笑えるページ。もちろん、読みゃわかると思うけどこの著者はあくまでギャグで笑わせようと思ってやっているのです。青山氏はマジ。青山氏の場合、決定論だから確率の定義は普通とは違っていいんだというつもりなんでしょうがねぇ。でもやはりなんかおかしいよ、それ。

 しかしなんだ、私なんかはタイムトラベルと決定論がどうのこうの、という話になるんなら「ハードSFのネタ教えます」の方で書いたように、たとえローカルな物理法則が決定論的であってもタイムマシンが存在していたら全体の歴史は決定論的でなくなるとか、そういうふうな部分に興味がいくのだが、この著者はそういう可能性は全然考慮に入れてくれてない。はがゆい。

 最後の方の章はアキレスと亀のパラドックスについて割かれているのだが、なんで哲学の人というのはこんなにアキレスと亀が好きなんだろう。ここも物理学者が読んでいるといらいら来る。

 「物理学者に限らず多くの人々が、フリーズワールドの重なりによって時間の広がりを表現してきた」なんて言われるとおいこら、となる。どうやらこの人は物理学者は瞬間瞬間における「座標」の値のみ(これを彼はフリーズワールドと読んでいる)で力学が記述できると思っているらしい。そういうふうに考えると「全てのフリーズワールドが同一の世界を描いたものであること」の根拠がない、ということになるらしい。実際には力学は瞬間瞬間における「座標」と「座標の時間微分」(もしハミルトン形式でやっているなら「座標」と「運動量」)とで記述される。つまり、物理学者はフリーズワールド+速度で時間の広がりを表現しているのである。物理学者的には当然、運動方程式が瞬間と別の瞬間の継続を保証すると思っている(そりゃ、「座標」だけを与えれば運動方程式は解けないが、そんな力学は物理学者は使わない)。

 あともしこの世にアキレスと亀しかなかったら、時間というものが定義できないから「永遠に追いつけない」が解になってもいい、なんて言い出す。時間が定義できなかったら「追いつけるか」という問題自体が未定義問題になるからあたりまえだ。私はそんなことを考えるのに私の時間を使いたくないぞ。

 結論から言うと、わかりにくいうえに、苦労して読んだ後に出てきた結論が納得できなかったり、すげえストレスたまる本だった。

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