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「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ・東京SOS」感想


 ネタバレを含むので未見の方は御注意を。

 今回の話は「ゴジラ×メカゴジラ」の直接の続編で、「モスラ」(1961年の)の続編にもなっている。そういうわけでザ・ピーナッツの小美人と長澤まさみ&大塚ちひろの小美人は同一人物なのである。ちょっと無理があると思うが(^_^;)。ザ・ピーナッツ連れてくるわけにもいかんだろうけど。

 前作「ゴジラ×メカゴジラ」では、ゴジラの骨を部品に使っているとはいえ所詮ロボットである機龍(メカゴジラ)にやたらと感情移入する主人公たちにちょっと違和感があったのだが、この作品でもその傾向は続いている。しかし2年めだということと、一番感情移入しているのが妖精である小美人、2番目は機龍でなくてもメカに感情移入しやすい質だということになっている整備員(金子昇)である点で違和感がだいぶ少ない。

 まずモスラ&小美人が「ゴジラの骨で兵器を作るなんてことは自然の理を破っているのでよくない、やめてくれ。もしゴジラが来たらモスラが戦うから」と告げにくるところから映画が始まる。前作から疑問だったのだが、なんでゴジラの骨を使うんだろ。巨大ロボットを作るための構造材として、ゴジラの骨よりいいものがなかった?それともDNAコンピュータとかいうものを動かすためでしょか。
 それはともかく死体を使って兵器を作るのは確かにあまりよいことではないので、小美人の言うこともごもっともではある。がしかし、「代わりにモスラが戦います」とまで言うからには、そのままほっとくとなんかよっぽど悪いことが起こります、ということの説明がもっと欲しかったな。カメーバの死体が流れ着いたりする場面はそういう意味合いなんだろうけど。
 それにしても小美人、昔の知り合い(小泉博)にだけ話するんじゃなくて、ちゃんと総理とか防衛庁長官とかにも説明に行けよ。おかげで小泉博が苦労しているじゃないか。ところで「モスラがゴジラと戦う」という話に総理以下が懐疑的だということは、この映画の中では「モスラ対ゴジラ」はなかったことにされているわけね。

 というわけで機龍の修理も中途半端な状態でゴジラがやってきて、モスラにとりあえず任せてみるか、という感じで観戦してた総理(中尾彬)がモスラ劣勢を見て機龍投入を決断、モスラ成虫は死亡するものの幼虫および機龍でゴジラを撃退する、という流れになるわけだが。

 この流れでひっかかるのは、いったんシステムダウンした機龍を現場でメンテナンスするためにたまたま近所にいた主人公金子昇が一人で行くというくだり。都内から都内への移動なんだから、整備班が移動することは可能だろう。しかしそもそも一人でちょこちょことメンテして直せる程度の故障かどうかすら、わからんのが普通なのだが。主人公を活躍させんと映画にならんといえばそうなんだが、たまたま近くにいたから一人で行きます、ってのは不自然ではあるよな。

 さて最終的には機龍がまたもや自我に目覚め、ゴジラとともに深海深く眠る、という道を選ぶんだが、この自我に目覚めるあたりも、機龍の制御がどの程度ゴジラの骨に依拠しているのかという描写があいまいなのでちょっと戸惑う。「ゴジラ×メカゴジラ」で一回暴走した後、思考回路にゴジラのDNAを使わないように改良した、という話もあったことだし。先にも書いたけど「なんでわざわざゴジラの骨使って機龍作るの?」というあたりの疑問が映画の中できっちりと説明されてないから違和感が残っちゃうんだよな。

 ふと思ったのは、子供の頃みた怪獣映画では「何、今どうなったの?」とうざいぐらいに質問する役(子供だったり女性記者だったりすることが多いのだが)が必ず設定されていたもんだった。あの頃は「うるさい」と思ってたが、やっぱりああいう役はいるねぇ(^_^;)。

 最後に機龍が自我をもって、金子昇に「さよなら」とメッセージを送るあたりも、怪獣映画なんだからありなのである。ジェットジャガーが巨大化するのに比べれば(って比較対象が悪すぎますか?)唐突でもない。

 なんか文句を先に書いてしまったが、全体の印象は大満足である。よくできた「怪獣映画」だ。一般映画としてみたらいろいろ穴はあるわけだが、怪獣映画の文脈だと思ってみれば、許せると思う。東宝チャンピオン祭で、「三大怪獣地球最大の決戦」とかをわくわくしながら見ていた頃を思い出させてくれた。

 ちなみに一緒に見たわしの息子の感想は「モスラの親、かわいそうだったねぇ」だった。怪獣映画の感想としてこれが出るというのは大成功ではなかろうか。


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