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 ひとりぼっちの空間

      前野[いろもの物理学者]昌弘          

 その日、研究室へ出てくると、来客があると告げられた。それも軍からだと言う。純粋理論物理をやっている身としては、軍に目を付けられるような研究をした覚えも無い。不審に思いながら応接用に使っているセミナールームのドアを開けた。洗わないまま放置されているコーヒーカップや論文のコピーが散乱したテーブルの側の椅子に、宇宙軍の制服に身を包んだ背の高い女性士官が座っていた。
 「及川博士ですね」
 彼女は立ち上がり、握手を求めて右手を差し出した。
 「星系軍科学調査部のエミー・ライマン中尉です」
 美人だった。それに随分若い。女性だということで少し気は軽くなったものの、いったい軍人が何をしにきたんだろうという思いは消えなかった。
 「どういった御用向きでしょうか?私は量子重力理論の純粋な理論屋で、軍に役に立つようなことは研究してませんよ」
 彼女はにこり、と笑った。こちらが不審がる事は充分予想していたようだ。
 「では単刀直入に用件を申し上げますと、ある調査に参加して欲しいのです。ポセイドンとのタキオン転送ネットが通信不能になるという事態が発生したのです。このことは現在、極秘ですが」
 「通信不能?」
 このホーリントン恒星系は田舎である。植民が始まったのはたった二十年前。ポセイドン以外にはタキオン転送ネットがつながっていないのだから、それが不通になるのは大いに問題だ。外界との物理的な連絡が全くとれなくなったことを意味する。
 21世紀末に発見された超光速で走る粒子タキオンと、22世紀中頃にやっと実用化されたタキオンによる物質転送機のおかげで人類は宇宙に拡がった。拡がっただけではなく、恒星系間の交易が自在におこなえるようになった。タキオン通信による転送は二重、三重の安全装置を組み込んだ精密技術であり、滅多に故障などしない事になっている。一時的であれ通信不能になったというのは重大ニュースだ。ましてこのホーリントンのように、工業製品のいくつかを他星系からのタキオン転送による輸入に頼っている発展途上星系にとっては。
 「しかし、それが私とどういう関係が?タキオン転送機の故障なら専門の技術者がいるでしょう」
 「原因は転送機の故障などではありません。ホーリントンより約3光日離れた場所にある天体によりタキオン通信が遮断されたためと考えられています。外惑星の摂動から、そういう天体があるらしいという話はお聞きになったことがあると思いますが」
 この星系に人類が住むようになって二十年ほどだが、これはちょっとした謎になっていた。その天体が光学的、電磁的に発見できなかったからである。もっともその為にわざわざ宇宙船をとばす粋狂な人間もいなかった。それでなくてもこの惑星のテラフォーミングと開発に忙殺された二十年だったのだから。一隻の船を亜光速まで加速するのに必要なエネルギーで、惑星系一個が充分十年は養える。タキオン通信全盛の今、亜光速しか出せない宇宙船など、コストがかかりすぎて誰も使わないのだ。
 「まさか。通常の天体ならタキオンは難無く通り抜けていく筈です。ブラック・ホールだとしてもシュワルツシュルト半径内にタキオンビームが入ってしまう確率なんて無視できるし…」
 「おっしゃる通りです。この三日間、我々はあらゆる可能性をテストしましたが、いまのところこれが全く未知の現象であるということ以上は何もいえない状態です」
 「しかし、その天体だって公転ぐらいしている訳でしょう。遮蔽が長く続くことは…」
 「問題は、その天体の公転が止まっている事です」
 この時はエミーをただの軍人と思っていたので、できのわるい学生にものを教える時のような口調になってしまった。後に彼女が天体物理で博士号をとっていることを知った時は慌てたものだ。
 「貴方、公転が止まるなんて事が有り得るとでも思っているんですか?そもそも例の天体がもっているであろう莫大な運動エネルギーを考えると…」
 「まさにその、有り得ない筈の公転の停止の為と思われる重力波が観測されたのです。莫大なエネルギーが重力波の形で放出されたと考えられます。それもどんぴしゃり、タキオン転送ネットが不通になった時に、その方向から。観測によると問題の見えない天体がなんらかの力で急加速してこちらにその進行方向を向けたと考えれば最も得られた重力波のデータをよく再現します」
 「しかし、そんな事は…」考えられない、と言おうとしたが、彼女はあくまで真剣であり、その確信の度合いからしてもいい加減な話ではなさそうだった。
 「現在、その天体は、まっすぐこちらへ向かって来るのです。これがなんらかの意図を持っての行動だったとすれば、ビームが遮断されたままになる可能性は大です。軍の管制のため世間には通信の途絶そのものさえまだ洩れていません。とりあえず、通信機の故障という名目で一時使用を控えさせていますが」彼女はそこで口調を改めた。「我が軍の科学調査部はその天体の位置まで飛行し、これを調査することになりました。ついては及川博士に御同行と調査へのご協力をお願いしたいのです」
 「しかし、それならタキオン通信の技術者を呼ぶべきでしょう。それと天体物理の専門家と」
 「もちろん、タキオン通信技術者も、天体物理学者も調査に参加します。しかし、おわかりと思いますがこれは全く未知の現象です。あなたのような純粋理論物理学者の力が必要になると考えられます」
 天体物理学者とは勿論彼女自身であった。
 「いや、それにしても僕より適任者がいると思うけど…」
 実際、自分が高名な学者ではないのはよくわかっていた。何より軍の調査に参加なんてとんでもないというのがその時の正直な気持ちだった。未知の現象といわれても、どうもうさんくさい思いがしてくる。もちろん、この居心地の良い研究室を片時と離れる気もしなかった。
 「どなたですか?」
 「そうだな、近いところではニューオーサカの小川さんとか。ゴメスにいるリー・ランプスン先生は私の恩師だから紹介してあげても…」
 今度は彼女が、学生をなだめるように言った。
 「リー・ランプスン先生は、ゴメスからここまで二三光年を、バスに乗って来れますかしら」
 これには私も、口を開けていることしかできなかった。
 「おわかりでしょう?この星にいる人間だけでなんとかしなければいけないのです。通信が回復する可能性はまだ見えません。この問題は場合によってはこの星の人類全体に関わるのです」
 田舎の新設大学にやっとこ就職できたできの悪い理論物理学者としては、この星の人類全体に関わる問題など、少し重すぎる。しかも、突然の事でこの話そのものが現実感を持っていなかった。だが、腹をくくるしかなかった。
 どうやら、この居心地の良い場所を離れる他は無さそうだった。
 「わかりました、いきましょう。出発はいつですか?」
 「3時間後、迎えに来ます」
 随分急だなと思いつつ、私は頷いた。急なのは仕方有るまい。ぼやぼやしている場合ではないのだし。
 私自身、その現象に興味を持ち始めていた。もしかしたら、全く新しい物理現象なのかもしれない。とらぬ狸のなんとやらと思いつつも、自分がその発見者の栄誉を得られるのではと、虫のいいことを考え始めていたのである。

 20世紀末の超紐理論の頃からその兆候はあったのだが、21世紀初頭に完成された非局所場に基づく重力を含む統一理論の予言する素粒子の中には、どうしてもタキオンが含まれることになっていた。この理論に於いてはタキオンと通常の質量のある粒子が対称に現れるはずだったからである。 幸い、「ラマコフ相」とよばれる量子力学的“状態”を現在の宇宙における「真空」と考えればこのタキオンは他の物質とは相互作用できないと分かった。残された問題は一つ――宇宙初期には非ラマコフ相(タキオンが相互作用できる状態)が実現していたと思われることであった。だが、実はこの問題の出現は宇宙論にとっても福音となった。いかにインフレーション理論等をいじくっても解けなかった「なぜ宇宙はこうも一様なのか」という問題が解けてしまったからである。いったん、非ラマコフ相の存在を認めてしまえば、答えは簡単だった。初期宇宙に於いてはタキオンが超光速で走り回り、ビッグバン直後の狭い宇宙を一様な温度に「ならして」しまったのだ。現在の宇宙に於いて、どの方向からも三度Kの黒体輻射がやってくる理由はここにある。非ラマコフ相の宇宙では宇宙初期の特異点問題が回避されているらしいという説もあり、これは現在でも研究中である。私自身の研究分野もその辺りに近いところにある。
 理論物理屋がしぶしぶタキオンの存在を認めた時はまだ、「どうせ相互作用しないんだから」とたかをくくっていた。宇宙初期でだけは相互作用しているという理論ができた時点でもまだ、「我々の世界では超光速が存在する筈はない」という確信は揺らがなかった。
 しかし、精力的な実験物理屋であった大沢が実験室内で非ラマコフ相を作り出したのはそれから三○年後のことであった。そこからタキオン通信の時代が開けることになった。
 タキオンの存在は因果律に低触するのではという畏れはしかし、実験と理論の両方によって否定された。タキオンは超光速で走る。よって相対論の帰結からして、観測者の立場に依っては過去に走る筈だった。実験もそれを支持した。観測者に依っては確かにタキオンは過去に走るように見えたのである。ところが、“静止”している観測者からみると常に速度無限大で走ったのである。もちろん、相対論は静止している観測者等という特別な立場を放棄した筈だった。しかし、現に「静止系」は存在した。
 その静止系とは、黒体輻射がその僅かな揺らぎを除いて完全に等方的になっている系である。例えば地球上では、黒体輻射は地球の絶対運動によるドップラー効果の分だけ歪んでいる。地球から見て運動している系の上でないと、黒体輻射のドップラー効果は消えない。タキオンは常にその「静止系」の同時刻上、もしくはその静止系での未来へと走ったのだった。絶対静止系が存在していたからといって、相対論が間違えていた訳では無かった。単に宇宙が有限であるがゆえに、この宇宙の境界条件にタキオンの運動が制限を受けていただけであった。文字どうり超光速で伝播するタキオンは、遥か彼方の宇宙の状態にその軌道を影響されていたのだった。宇宙がもし閉じておらず、境界のないものであったなら、このような現象は起こり得なかったろう。境界条件も含めた宇宙には「絶対時間」が存在していたのだった。そして、いかなるタキオンもこの「静止系」でみて過去には戻れないと判ったのである。20世紀の全く無名の一人の物理学者によって指摘されていたこの可能性は百年後の実験に依って再発見されることになった。 転送機が発明されるや、ラムスクープを使った亜光速船が、できたてのほやほやの転送機を載せ、次々に飛び立った。それから百年で人類は半径約四○光年の宇宙空間に拡がっていった…。
  エミーが連れてきたタキオン技術者というのは二十代の若い、髭面の達磨のような男だった。私は彼とエミーにむかってこのような講義をしながら、謎の天体の近くに亜光速で到達した宇宙巡洋艦までの3日間を過ごした。宇宙巡洋艦はホーリントンから3光日の位置まで進出していたから、その3光日の距離のタキオン転送を行った場合、外からみれば一瞬で終わる旅だが、転送される人間の主観的時間は3光日が経過する。時間的距離にすれば3日分に値する空間的距離を移動するのだから、主観的時間、すなわち固有時は3日経過してしまうのである。
 宇宙巡洋艦のフルパワー加速から乗っている人間を守れるほどの慣性消去システムはまだない。そのため、人間を直接宇宙空間へ運ばなくてはいけないような場合、このような方法がとられる事が多い。 転送される人間にとっての転送の経験は、単に<個室>と呼ばれる転送ボックスに入って3日間を過ごすだけだ。今回の転送の旅では、私とエミーとタキオン技術者の合計3人が一つの<個室>に入った。 時にはうざったい、この3日間の時間だが、今回は我々に問題を検討する時間を与えてくれた。 タキオン技術者の名前はヨセフ・タロンという。この現象の原因に関しては私同様、彼もお手上げ状態らしかった。私がきくより先に、彼のほうから尋ねてきた。
 「原因として考えられることは?」
 私は肩をすくめて、「タキオンを遮断できる以上、あそこには非ラマコフ相があるとしか思えない。もちろん、ほんとうに遮断したんだとすればの話だが…。天然の非ラマコフ相なんて考えられるかい?」と言った。 「考えたくはないですね」
 技術者にとってはそうだろう。もちろん、理論物理学者にとってもそうだ。この後彼は非ラマコフ相を作り出すにはどれほどの精密技術が必要かについて一席ぶってくれた。純粋理論しかやったことのない私にとっては、少し細かすぎる話題だったが。
 どう考えても、この現象が何者かの破壊工作であるという可能性は低いように感じられた。ここまで手の込んだ事をしなくても通信を途絶させるくらいは簡単だ。それはエミーも同感らしい。彼女は最初から破壊工作の可能性はほとんど排除しているようだ。
 自然現象でない場合についてもいろいろ考えてみたが、結局、二人して肩をすくめ、つぶやくしかなかった。我々の予想の能力を越えてる、と。
 我々が転送された宇宙巡洋艦(いまだにこんなものがあるのは信じがたいが) “バラード”は乗組員は三○人。正規の乗組員以外に、エミー他の調査部の人間五人と、私、ヨセフ、そしてもう一人の女性が乗っていた。私たちはまだ彼女の紹介を受けてなかったので、誰なのかは知らなかった。ただ、軍服をきていないから、民間人であることは確かなようだった。
 転送されてから半日後、問題の空間のすぐ近くに到達した時、私は恐る恐るエミーに聞いてみた。
 「あの女性は何者なんだ。見たところ、軍人でも学者でもなさそうだけど…」
 「被害者の奥さんよ」 意外な答えだった。
 「被害者、とはどういう意味だ」
 「タキオン通信が途絶したとき、ちょうど転送されていたのがあの人の御主人だったの。転送先からは転送開始のシグナルの後、通信が途絶した。で、事故が起こったことが判ったの」
 「人間を転送中だったのか・・」では、その人間の情報がどこかへ行ってしまったわけだ。今回の事故は人身事故だったわけだ。<個室>内では問題の天体のことばかり検討していて、この話は聞いていなかった。事態の深刻さは私が思っていた以上だった。
 「被害者は一人だったのか?」と私は尋ねた。タキオン転送の為に必要なエネルギーは質量に比例するが、転送時の調整は質量とは関係ない。その為、どうせエネルギーが同じなら、一度にたくさん送ってしまう方が手間がかからない。ホーリントンからのタキオンネットの場合、一回の転送人員は二十人くらいはあった筈だ。その乗客は通常、冷凍睡眠状態に入ったままで転送される。1光年を進むには外から見ると全く時間(この時間はもちろん黒体輻射時間だ)がかからないが、転送されている方は主観時間1年が過ぎてしまうからだ。相対論に於けるウラシマ効果と逆である。超光速で走る際には主観時間と外部時間の差は光速以下の場合と逆になる。私が初めてこのホーリントンに来た時も、3光年分(3年分)の旅を<個室>で過ごした。長距離の旅の場合は冷凍睡眠を使う場合が多い。実際私と同時に転送された他の人間18人はみんな冷凍睡眠をした。私は「3年間分、一人静かに研究できる」と思って冷凍睡眠の措置をとらなかった。他人から見れば一瞬の転送の間に3年分年をとったわけで、3年分の肉体年齢を損した事になる。
 「軍の輸送でね。軍人が一人で乗っていたの」とエミーが答えた。
 「その、軍人の信号が消えてしまった訳か」
 自分の主人がタキオン信号になったまま向こうについてないとなればこれは悲劇だろう。軍服を着ていないから一般人なのだろうが、極秘極秘と連発されていたわりには夫人とはいえ、よく一般人を連れて来たものだ。
 「極秘調査だった筈だが・・彼女も軍の人なのかな」
 「かって軍にいた人ですから」ちょっと表情を硬くして、エミーが答えた。
 私もそれ以上は聞かなかった。友人でもないのに、うちひしがれているであろうその女性に近付くのもまた、ためらわれた。

  問題の空間の二光秒ほど離れた点で“バラード”は相対速度をゼロにした。より正確にいえば、そこにあるはずの何かの周回軌道に乗った。その“何か” は今真っ直にホーリントンの方へと落ちている筈だ。レーダーには何も写っていない。肉眼で見た感じでは、ごく普通の星空がひろがっているだけだ。しかし、“バラード”にかかる万有引力は、確かになんらかの巨大質量を感知していた。
 「観測を開始します」
 若い士官がコンソールに向かい、処理を始めていた。
 何の観測をしていいものやら、今のところは全く判らない。光学的測定はそこには何も無い事を示している。全波長域に渡って、電波を反射、吸収する物は見つからないのだ。だが、そこに何かが“ある”のは万有引力の存在から判る。
 「万有引力からすると、ホーリントンの10倍くらいの質量の天体があそこにいることになるわ。もし、あそこにブラックホールがあったとしても、重力レンズ効果でわかる筈ね。」
 そのエミーの言葉に対して答えて私は問い返した。
 「そういう意味なら、万有引力を感じる以上、重力レンズ効果は起きてる筈だ。星図とバックの星空を照らし合わせて、質量分布は出せないか?」
 「できる?」エミーはコンソールに向かっていた若い士官に顔を向け、言った。
 若い士官は少し考えてから肯き、コンソールに何かを打ち込み始めた。
 「重力異常発見用のプログラムが流用できそうですね。星図の精度からして、精密測定はできませんが…。探針衛星をいくつか飛ばして軌道に載せてみます。多点観測すれば、星図がなくても空間の曲率は測れますし、探針衛星どうしでレーザー通信もさせられますから」
 「どこまでいけばぶつかるかだけ判りゃいいさ」ヨセフが冗談のように言った。
 「それと宇宙背景輻射がどうなってるかも観測してくれ。何も電波が来てないということは背景輻射をカットしてるってことになる」私はふと思い付いて士官に頼んだが、おかげで自分が理論屋であることを思い知るはめになった。「いえ、測定器が背景輻射を自動的にカットしてるんです。つまり、あの方向からも同じ温度で背景輻射が来てます」
 宇宙観測用の測定器ならともかく、軍の対艦探知用センサーをつかっていたのだ。背景輻射を引っこ抜くぐらいのデータ処理は当然する。戦争がテクノロジーを進化させるという話はある程度は本当だ。もっとも、人類の爆発的膨張の時期であったこの百年、戦争はおこっていないが…。
 「なるほど。そうすると、背景輻射の揺れ以上に精度はあがらない?」
 「もちろん、そうです。もっとも、背景輻射が問題になるような遠距離じゃないですよ」
 普通の軍の目的からすればそうだろう。だが、これは全く未知の現象なのだ。「それともう一つ。タキオンを出してないか?」
 「そいつは調べてます。いまの処、探知できてません」
 エミーがわたしのほうを向いて、話し掛けてきた。
 「一体、何だと思う?こうまで何も見えないとは思わなかったわ」
 私は考えていたことの一つを言ってみた。
 「新しいタイプの位相欠陥かもしれない」
 宇宙の位相欠陥と呼ばれるモノポールや遠い銀河団の中に発見された宇宙紐は、ラマコフ相に移行した直後の、ゲージ粒子が質量を持たなかった頃の宇宙の状態を現在に残している化石のようなものだと言われている。同様に、非ラマコフ相の宇宙が化石のように残っているのかもしれない。非ラマコフ相における「真空」はラマコフ相の「真空」に比べエネルギーが高い。それは見えない質量として感知される筈だ。ちゃんと方程式の解として存在しているモノポールや宇宙紐に対し、いまだそのような解の存在は報告されていないが。「それとも、シャドー・マターかな」
 シャドー・マター――重力以外の相互作用をしない物質――はいろいろな力の統一理論の中に現れてきた。現在ではほとんどの可能性が否定されてしまっているが、完全にない、といえるものではない。そのシャドー・マターでできた星があそこにあるのなら、我々には重力でしか感知できない。エミーは少し考えて込んでいた。「シャドー・マターの星があったら、そこに通常物質が集積しそうなものだけど…」
 その兆候は無かった。
 「“奴”が食ってるんでしょうかね」
 ヨセフのこの言葉はもちろん冗談だったし、事実とは違った。が、やがて冗談とはいえないものになるのだった。

 長い、地味な観測が続いていた。調べれば調べるほど、そこにはなにもないという事が判ってきた。“バラード”の持つ6つの探針衛星を謎の天体の軌道に載せ、レーザービームを飛かわせてその重力レンズ効果から質量分布の解析を行っていたが、これ以外には意味のある解析はできそうになかった。何もないように見える空間でありながら、確かに光はそこにある物の重力のために曲がっていた。
 「直接無人探査機でも降ろしてみたら?」
 じりじりしているヨセフが言ったが、エミーはとんでもないといいたげに言い返した。
 「ここは慎重にしなければ。反物質の惑星に降りていく無人探査機を書いたSF、読んだことない?」
 ヨセフが肩をすくめた時、若い士官が報告を始めた。
 「質量密度分布が出ました。」 ディスプレイに浮かび上がった図を見て、私はうなった。
 「半径約一○○メートル…。だいたい、中性子星程度の密度ね。」
 エミーもまた、考え込んでいた。
 「それにしても、密度がほぼ一定なのはどうしてなの。そもそも、それだけの密度の質量を持っていながら、どうして光を完全に透過させるのか、が問題だけど」
 「まさか全部ガラスで出来た星って事はないよな」とヨセフが軽口を飛ばす。
 「屈折率1で、密度が一○の一五乗グラム毎立方センチのガラスかい?ちょっと信じられないな。それにガラスなら全波長の電波を透過したりはしないよ」私は笑って答えながら、ディスプレイに見入った。そして、「中心に影が見えるな。ぼんやりしてるのは精度のせいかな?」と若い士官に聞いた。その時はすでに彼はコンソールを叩いていた。
 「ええ、かなり複雑な構造があるように思えますが、ここまでが限界です…。探針衛星6個じゃ、レーザーで走査できるもこの程度です。ただ、安定した質量分布じゃないのは確かです」
 「何かが動いている訳か…」
 ぞくっとするような感覚があった。私は尋ねてみた。
 「ヨセフ、あれが非ラマコフ相だとして、タキオンをぶち込んで探るという訳にはいかんか?」
 ヨセフがううんと唸った後、例の若い士官に聞いた。
 「ヒーリィ、探針衛星には、タキオン波感知機能があるのか?」
 ヒーリィという名前らしい士官が答えた。
 「ありますよ。レーダー用と、盗聴用のがね」
 転送用のタキオン通信機はかなり微妙な調整が必要であり、サイズも大きくなるため、巡洋艦以上の艦でないと載せられない。しかし、単なる信号の通信機なら別だ。中型より大きい宇宙艇なら載せられる。軍の探針衛星ともなれば、盗聴機として装備しているのは当然だろう。
 「という事は、指向性もいいわけだ。それなら、なんとかなる」
 ヨセフはそう言うと、ヒーリィと何かを相談し始めた。ここは私の出る幕はない。
 プログラムを始めた二人にその場はまかせ、私はエミーと話し始めた。
 「彼等はあれをタキオンで照らしてみようとしているようだ。タキオンなら、なんらかの相互作用をする筈だからね」
 「確かに、その可能性はあるけど…大丈夫?」
 「無人探査機を降ろすより、考えようによっては危ないかもしれないな。あの空間はタキオンは逃がさないと思う。むしろ通常物質の方が安全に通り抜けるんじゃないかと思うぐらいだ」
 「反射波は返ってくるかしら。転送の信号は全部吸収されたのよ」
 「やってみるしかないな」
 私はヨセフの方を見た。ヨセフは私に向かって肯き、「単なる信号なら、吸収しないかもしれないしな。あそこに非ラマコフ相があるとしたらだけど」と言った。私はそれを聞いて、「それで何か判るようなら、何かをタキオン転送してみよう」と答えた。
 ヨセフはコンソールに向かって作業を始めた。作業中に彼は「あの形、どうも気になるな」とぶつぶつ言っていたが、私はその意味について尋ねはしなかった。
 そうしているうちにも“バラード”はさらに謎の天体に近付き、詳細な観測を続けていた。もともとこの不思議な天体の取っていた軌道のあたりに小天体が発見された以外は、なんら“発見”と呼べるものはなかった。この小天体はおそらく、謎の見えない天体の重力が集積させた通常物質であろう。見えない天体が急加速をおこなった時においてけぼりを喰ったのに違いない。 ますます、謎の天体が普通の物質と相互作用しない事が明白になっていた。今我々が見ているものは、シャドーマターでできた巨大宇宙船とでもいうのだろうか?

 

 プログラムを作るのにまた半日を要した。“タキオンを反射する物体にタキオンをあてて形を探る”プログラムを使う機会など、他には存在していないだろうから、この時間は長いとはいえない。ヨセフとヒーリィはよくやったと言える。 ヒーリィはエミーを呼ぶと、「ぶっつけ本番でやってみましょう」と言った。エミーは肯き、ヨセフがプログラムを始動させた。
 すでに探針衛星は配置についている。“バラード”とタキオンを使ってほとんどタイムラグなしで連絡を取りつつ、“バラード”から照射されるタキオンの反射を捉えようとしている筈である。
 ディスプレイに、なにかが浮かび上がってきた。
 一同はぎょっとしてその画面を食い入るように見た。
 「なんてこった・・・思った通りとは」ヨセフがそう言った。そこにあるものは、タキオン転送機の技師であるヨセフにとっては馴染深いものだったのだ。
 そこには、どう見ても<個室>としか思えない物があった。部屋の中には一人の男が座っている。すなわち、ポセイドンからホーリントンに向けて転送された中身そのままだったのだ。
 しかし、半径一○○メートルの球の中に浮かび上がった彼は、どうみても身長10メートルはあるように見えた。
 「あなた!」 後ろで例の女性――被害者の妻――が叫び声をあげ、ディスプレイにむかって飛び付いた。 我々は、呆然とそれを見ていた。後ろに立っていた兵士が、彼女に歩み寄った。
 「あなた、あなた…」
 「本田さん…」エミーもそう言った。そして、となりの女性の方を向き、尋ねた。
 「間違い無い、わね?」
 彼女はディスプレイを見続け、答えなかった。
 「こんな、こんな…」
 「顔を拡大できる?」エミーが士官に指示する。顔面は蒼白になっていたが、さすがに度を失っていない。私は奇妙な非現実感を味わいながら、ディスプレイに見入っていたというのに。
 ディスプレイに、顔が浮かび上がった。画素が大きすぎるため、モザイク模様のようになってしまったが間違い無く、それは男の顔のように見えた。しかも、彼はひどく憔悴しているようにみえた。
 「本田さん…」
 エミーがまた、そう呟くのが聞こえた。
 「御主人ですか?」
 私は被害者の妻だという女性に聞いた。
 「はい…」
 エミーがじっとディスプレイを凝視していた。彼女自身もこの男の顔を知っているようだった。
 「ちょっと待って下さい」ヒーリィがまた何かを操作した。「さっきの映像から1分後の映像を今作ってます」
 さばくべきデータの量が多いのか、さすがに時間がかかったようだ。しばらく後、その映像が我々の前に現れた。ヒーリィは二つの画像を重ねた。二つの画像には違いがあった。男が動いている。
 「動いているのか…」
 ヨセフが唸った。
 「生きてるんだ。あの人、生きてるんだ…よかったあ」
 被害者の妻がディスプレイに向かってうわ言のように言った。
 「私もあそこにいかせて、ねえ、エミー」
 彼女は振り返ってエミーの名を呼んだ。エミーは「できないわ、美樹」と言うとその言葉にかぶりを振り続ける彼女の両肩を抱き、言った。
 「どうすればあそこに行けるか、私にはわからないの」
 「いやよ、そんなの!」
 殆ど半狂乱になっている彼女に、エミーは後ろにいた医療班の人間を呼んだ。

  「彼は…生きて…動いているのか?」
 私はヒーリィに尋ねた。
 「どうも、そのようです…。しかも、動きが随分速い…」
 「どういう事だ?」
 「時間のスケールが違うみたいですね。サイズだってそうですが」
 「サイズは5倍くらいにはなっているな。時間の方はどのくらいだと思う?」
 「時間の基準になるものがないのでよくわかりませんが…10〜20倍は速く流れていますね」
 「向こうの1メートルがこちらの5メートルで、向こうの20秒がこっちの1秒…だとすると、あそこでは光の速さはこっちの100倍くらいになっている」
 ヒーリィとヨセフは、え?という顔をして考え込んだ。
 「あそこが、普通の空間でないことは間違いない」
 私はそう言って、自分も考え込んだ。つまり、あそこにいる人――本田と言ったか――や、<個室>を作っている物質は、通常の意味での物質ではない。タキオンでしか探れない、我々の知らない物質があの空間にはあることになる。
 私はそのような物質の可能性を考え続けていた。
 エミーは彼女をとりあえず部屋で休ませるようにした後、またブリッジに帰ってきた。そして、私たちに尋ねた。
 「何故あんな現象が起こったか、理解できる?」
 私とヨセフは顔を見合わせた後、エミーに向かってかぶりを振った。
 「あの空間が転送に使われたタキオンを止め、その情報を取り出した事は明らかだ。自然現象としてこんな事が起こるとはとても思えない。しかもいかなる形でタキオンの運んだ情報が具現しているのか、さっぱりわからん」
 「何かの偽装工作というには…手がこみすぎてるわね」
 我々は頷いた。
 「自然現象としてこんなが起こるなんて有り得ない、とあなたは言うけど、タキオン転送は符号化がされている訳じゃなくて素粒子の波動関数そのものを送っているから、受信の原理はラジオより簡単だと聞いた事があるわ」
 エミーの言葉に、今度はヨセフが答えた。
 「確かに原理的には簡単だ。充分安定した非ラマコフ相があって、そこに的確にタキオンビームをヒットさせさえすればね。そうすれば、殆ど自動的に受信側で物質が再生される。だが問題はその時送った側と正しい対応が得られるかどうかだ。下手な制御をすると全然違う素粒子の形で再生されてしまうんだ。非ラマコフ相のθ−パラメータを調節すれば、電子と陽子が入れ替わった状態で到着したりする事だってありうるぐらいだ。そういう事が起こらないよう、タキオン通信機は非常に微妙な調整をしているんだ。」
 私はヨセフに聞いた。
 「しかし、あそこに充分安定した、しかもθ−パラメータの狂った非ラマコフ相があるとすれば?」
 「だから、そんな転送をすれば無茶苦茶な状態で再生されて…」と言いながらヨセフはそうか、という顔をした。「つまり、それが起こっている、という訳か」
 肯いた私に、ヨセフは「しかし、対応する素粒子なんてないよ。あの巨大なサイズじゃあ」と言った。
 「いや、あの空間全体が非ラマコフ相なんだぞ。我々は我々の棲む空間、つまりラマコフ相で存在できる素粒子しか知らないんだ。対応物を求めてもはなっから無理なんだ」
 「いや、しかし…」
 「そう思えばサイズの問題だって理解できるじゃないか。あの空間の中では相互作用の結合定数自体が違うんだ」
 回りの軍人たちがぽかんとした顔でみている。エミーだけが考え込んでいた。彼女は顔を上げ、言った。
 「つまりこういうこと?――本来我々の時空の中で、我々の知っている“素粒子”の形で再生されるべきタキオン通信波が、あの変な空間で再生されてしまったが為に、あの空間の中での“素粒子”で作られた巨人の形で再生された?」
 「そういう事だな」
 ヨセフが両手を広げ、“それ以上聞くなよ”というポーズを取った。
 「実際、それが起こっていると考えるべきだね。さっきの新しい位相欠陥じゃないかという予想が真実めいてくるな」
 エミーも両手を広げ、ふうと溜息をつき、ヒーリィに尋ねた。
 「彼は、その…本当に生きているの?」
 ヒーリィは心無しか青ざめた顔をして、さっき私に説明してくれた事実を報告した。
 「時間の尺度まで違うという訳ね」とエミーは言った。
 エミーは少し考え込み、それから聞いた。
 「いったい、あれは何?…何故タキオン通信波を取り込んで再生したりできるの?」
 「さっきも言ったが、あれが宇宙初期状態の化石だというのが一つの説明だ。宇宙初期の、まだタキオンが相互作用できた頃の。もう一つ考えられるのは、あれが何者かのタキオン転送機の実験の産物だ、という事だ」
 「あれだけの物を作るエネルギーは膨大な物になる。人工物とは思えないよ」とヨセフは言った。「まだ天然の物のほうが信じられる。それにしても、こんな物があるとわかっていれば、もっと早くに探査すべきだったな」
 「でも、天然の物だとすれば、問題があるわ。あれは軌道修正を、それもホーリントンへ向かう軌道修正をしたのよ」
 エミーの言葉を、ヒーリーが引き継ぐ。「その軌道修正にしたって、とんでもないエネルギーです。誰かがやったとして、それだけの手間をかけて、何をしようというんでしょう?」
 「今誰かと言ったけど、それが人間とは限らないわ。その可能性も考えてみるべきね」
 エミーの言葉に、私はびっくりして、「異星人の侵略だとでもいうつもりか?」と聞き返した。
 「タキオンや星を自由に操れるほどの異星文明との接触かもしれない。でも侵略というのは早計にすぎるわね。彼らが侵略の意図を持っているのかなんて、この状態ではわからないもの」
 私はエミーと議論を始めたが、ヨセフは別の事を言い始めた。
 「実はさっきからひっかかっていたんだが、もう事故から8日たっている。しかも、彼は速い時間の流れの中にいる」
 「で?」
 「あと3日で、彼はホーリントンに着くところだった・・つまり、彼の時間で、だが」
 「それで?」
 「あの<個室>は酸素と水はリサイクルだが、食料のリサイクルまでは付いていない。完全な冷凍睡眠型だから。となると、我々と同じ時間の流れの中に彼がいたとしても、もう5日、食事なしで生きていることになる。まして時間が速いんだ…」
 エミーはぎょっとしてヨセフの方を見た。エミーがヒーリィに「画像を出して」と言った。 出てきた画像の中の彼は、疲れ果てているように見える。
 ヨセフが続けて言った。
 「つまり、彼は目覚めた後、食べ物のない状態だった筈だ。早く助けないと、餓死する」
 そのヨセフの言葉に、エミーは強く反応した。「やめて!」と。
 ヒーリィがびっくりしたようにエミーを振り返った。エミーの顔面は蒼白になっていた。彼女と被害者の間になにか関係があったのは確からしい。
 「ごめんなさい、ちょっと取り乱して…」
 「始めて見ましたよ。中尉の取り乱す処」
 ヒーリィがそう言って、またコンソールに向かった。ほんとに驚いた、という顔だった。確かに彼女が取り乱す事がそうあるとは思えない。実際、さっきまでは精一杯気を張っていたのだろう。
 「食料をあそこに転送しよう。彼を助けないと」私はそう提案した。
 「できるんですか?」
 ヒーリィが尋ねる。私にも自信があるわけではなかったが、「同じ現象が起こるとしたら、こっちから送った物はあの世界での“原子”に転換されてあそこに転送される。そうなれば、彼・・・本田さんを餓死からは救える」と答えた。
 「餓死から救ったとして・・その先は?」 ヒーリィがさらに質問する。だが私に答えはなかった。
 「わからない。だが、方法は見つからないとも限らないだろう?」
 全員が考え込んでいる。
 その時、ヒーリィがまた画像を出した。
 「くそ…思ったより、向こうの時間は速いようです」
 その画像の中では、彼はもう、倒れこんでいた。
 「さっきまでは動きがありました。だから、時間差を考えての修正が必要だったんですが…今はほとんど動いていません」
 ヒーリィは言いたくなさそうに付け加えた。
 「間に合いませんでした。あの人は死んでいます」

 「美樹になんていえばいいのかしら」
 艦橋から出ると、エミーがそう悲しげにつぶやいた。
 とりあえず観測は続けるにせよ、もはやクリティカルな状況が過ぎてしまった以上、交代で休みをとろう、ということになり、私とエミー、ヨセフは自分の部屋へと引き上げることにした。一番休みが必要な筈のヒーリィはまだ観測を続ける気のようだ。
 「ところで、エミー」
 歩きながら、私はふと思い付いて聞いた。
 「君は彼――本田氏とその奥さんとは知り合いなのか?」
 「昔、少しね」エミーはちょっと口の端を歪めた。「好きだった事があるの。それだけ」
 私は馬鹿のように、「そうか…」と言った。どう言っていいのかよくわからなかったのだ。エミーは私たちに背中を向けた。泣いているようだった。
 その時だった。ヒーリィが艦橋の方から走ってきた。
 「戻って下さい。あの天体の中に――また本田さんが現れています!!」
 「また?」
 思わず聞き返した私に、ヒーリィは言った。
 「ええ。また、です。生き返っています。生きて、冷凍睡眠状態に入っているんです。相変わらず、すごい速度で時間が進んでいますが」
 目の前のディスプレイの中には、あの<個室>があった。さっきまでは倒れていた本田氏は、今度は冷凍睡眠装置の中で眠っているらしい。
 「さっきのは――そしてこれも――録画だったということ?」
 エミーが言った。
 「わからない」と私は答えた。なんらかの形で本田氏の死を録画し、あの空間に投影しているのだとすると、いったい、観客はどこにいるのか?――まして、誰がそんなことをしているのか?
 「転送機技術者の間には、こういうジョークがある――」と、ヨセフが話しはじめた。「転送に失敗して、蝿男ができるんだ――この“蝿男ができる”ってのもまた、古典的ジョークなんだが。で、技術者はその蝿男を撃ち殺してから言う。『やり直すから、バックアップを出してくれ』とね」
 人間一人の持つ各原子一個一個に至るまでの情報量は膨大であり、今回のような事故に備えて人間のバックアップを取っておく事ができないのはその為である。だが、充分な情報のストック場所さえあれば、バックアップは不可能ではない。
 「あれは、バックアップだと?――つまり、誰かがあの人のバックアップを取ってあって、何度も実体化させている、というのか?」
 私はヨセフに言った。ヨセフは肩をすくめ、答えた。
 「可能性だよ、あくまで。もちろん、彼はどこか別の場所で死んで、その録画が流されていると思った方が、精神的にはいいけどね」
 そう、その通り。そういう可能性もある。そしてそう考えた方が、精神的にはいい。しかし、我々にはどうしてもそう考えることができなかった。目の前に浮かぶ天体の中にある<個室>にいる巨人は、ほんとうにこの場に生きているような気がしてならない。結局あれが天体規模の大きさのビデオプロジェクターだなどと、誰が思えるだろう。
 私はディスプレイをぐっとにらみながら、このような現象が起こる可能性について考えを巡らせた。もしこれが誰かの手の込んだ悪戯ではなく、あそこに非ラマコフ相が本当にあるのだとしたら、本来不安定である筈の非ラマコフ相が安定でいられる理由はなんであろうか?
 宇宙初期の高温、高圧、かつインフレーション発生前のコンパクトな宇宙でしか、非ラマコフ相は現れない。もちろん、タキオン転送機はその状態を莫大なエネルギーを使用して、人工的に作り出している。幸いにしてそのエネルギーは回収可能なので、タキオン転送機は大型になるが、運転の為のエネルギーはそれほどたくさんはいらない。しかし、なんらかの形で封じ込めない限り、非ラマコフ相になった空間はあっというまにエネルギーの低い通常空間=ラマコフ相に変化して、余ったエネルギーを強烈な輻射の形で放出する筈だ。インフレーションの際の宇宙の第2次加熱も同じ原理である。なぜそれが安定して存在するのだろう?
 まるで、崩壊する事を拒否するかのように…。
 その時、かの天体の正体について、私は漠然とした思いを持っていた。だが、その時はそれが確信に変わることはなかった。
 エミーはこちらに来ると、「何か意見はある?」と聞いた。
 「提案がある。あそこに何かをタキオン転送してみないか。反応が帰ってくる筈だと思う」
 エミーは肯いた。彼を助けたいエミーとしては、すぐにも手を打ちたいであろう。
 「しかし、何を…」
 「すぐ、食料を送り込もう」
 私はヒーリィとヨセフに言った。
 「彼を助けられる見込みがあるんですか?」と、ヒーリィが聞き返してきた。
 「その見込みがないのなら、命を伸ばしても仕方がないように思えます」
 ふと私は、さっき泣いていたエミーの事を思った。「助けられる…そう信じよう」
 ヒーリィは難しい顔をしていたが、ヨセフが頷いているのを見て、「了解」と言った。
 食料が用意され、タキオン転送機の処に運ばれた。
 それにはエミーから本田氏への手紙がつけられ、そこに彼がタキオン転送で “遭難”した事、救助に全力を尽くす事、そちらの状況はこちらから見えるので、筆談ができる事などが書いてあった。本田氏が身長一○メートルの巨人となって宇宙に浮かんでいる事はもちろん伏せられた。
 ヒーリィはまだ難しそうな顔をして考え込んでいた。だが、最善を尽くす事しか今はできまい。彼の状況がもう少しでもつかめれば、我々にも打つ手が浮かぶかもしれない。
 「あの食料、食えますかね? 物理法則が違ってたりしたら…」ヒーリィはそう言ったが、私が「だったら、本田さんが生きてはいないよ」と言うと「そうですね」と頷いた。そして、転送機が動き始めた。
 転送された食料は、あの天体内の別の場所に、すぐ現れた。
 「全然違う場所に現れたな。これでは、本田さんが食べることはできないぞ」
 ヨセフがそう言ったのを聞いていたかのように、すーっと食料が本田氏の方へ移動した。本田氏が驚愕している姿が、ディスプレイに映る。彼にしてみれば、突然壁から食料のパックがにょきりと生えてきたように思えたにちがいない。
 ディスプレイの上には、早回しの映像が映っている。(我々にとっては)またたく間に、本田氏は手紙を読んだ。そして、食料を食べ始めた。
 「これでわかったな。あれは録画じゃない」
 ヨセフがそう言った。
 「これは喜ぶべきなんだろうか」と、ヒーリーが言う。
 「あの人は何度も何度も死んでいる、ということになる」
 「本田氏を助けることができる可能性がある、という点では喜ぶべきだ」と私は言った。
 「彼を助ける方法はある?」エミーが聞いてきた。
 私は首を振った。
 「正直、わからない。そもそも彼が生きていると言えるのかどうか…」私はぎょっとして言葉を切った。エミーが泣いているように見えたからだ。彼女はこちらに顔を向けず、「ごめんなさい」と小さな声で言った。「まだ好きだ、って訳じゃないのよ。そうなんだけど…」
 私はかける言葉を思い付かず、といってそのまま続ければ、もっとひどい事を言う羽目になりそうで、結局何も言えない状態になった。そして、エミーの横に、ただ立っていた。
 「でも、助けてあげたい…」とまた泣き始めたエミーに、私は言った。
 「助けられるさ、きっと」と。
 何の根拠もない言葉であったが、エミーは「ありがとう」と言った。

  私は、なんとかしなくては、と思いながらも、なんら策が立たない自分にいらいらしていた。あの天体がいったい何なのか、ぼんやりとわかってきたような気はしていたのだが。
 「なんとか、あれと会話する方法はないものかな。あれにそのまま送り返してもらう以外、方法はないぞ」と、私は自分でも意識しないうちに喋りはじめていた。
 ヨセフが私をまじまじと見た。
 「あなたは、まるであれが生きているように話しますね」
 そう言われて初めて、私はさっきから言おうと思っていたことを言う勇気ができた。
 「そう、あれは生物と考えていい。それも、意志をもっている。でなきゃ、タキオン通信網の上に居座るなんて芸当、できるわけがない」
 私はその時、もやもやと形を為していなかった最初からの考えが言葉になっていくのを感じた。
 「考えてみてくれ。宇宙の進化は人間の進化とは対称的だ。人間、いや地球の生物の進化はあとにいくほど進化のスピードが早い。宇宙の進化は逆に、はじめの数分で劇的な変化がおこり、その後はただ膨張を続けるだけだった。生物の進化が最後になって人間と言う思考能力を持った存在を産んだように、宇宙はその誕生の後の数秒で、思考能力を持った“空間”を産んだ――と考えられないか?」
 「――生きている空間だって?」
 エミーとヨセフは信じられないという顔をした。
 「タキオンを使って超光速でおこなわれた情報交換の中だ。充分、思考能力を持つに至るまで進化する時間はあったんだ」 わたしはヨセフに向けて逆に尋ねた。
 「宇宙全てが非ラマコフ相からラマコフ相へ転じるなかで、あの空間は非ラマコフ相のまま生き残った。何故だと思う?」
 少し考えこんだ後、ヨセフが言った。
 「生き残る意志があったから、か」私はうなずいた。
 「生き残る力もあった。他にも生きている空間はあったかも知れないが、力のある、“奴”だけが生き残った。自然淘汰だ。進化論ってのはそんなもんだろう」
 戻ってきていたエミーが尋ねた。
 「で、あれは何故、我々のタキオン通信波を横取りしたの?」
 「あれ、いや、奴が」 自分でも“奴”という言葉を使うのは少しためらいがあった。
 「宇宙がラマコフ相に転じて以来、初めて聞く“声”だったからだろう。だから、おもわず立ち止まった…」
 その場にいた皆が驚きで呆けているのがわかった。
 「“奴”が、どの程度思考能力があるのか、もちろんわからない。しかし、 “奴”の処理できる情報量が膨大なものである事は、タキオン・ビームから彼を再復元できた事からも明らかだ。そして、情報が処理できる、ということは思考能力を持っているとしても不思議ではない――いやむしろ、持っていると考えた方が自然だ。そして、“奴”は宇宙開闢以来ひさしぶりにタキオンの “声”を聞いたんだ」
 ヨセフが私の方を見て言った。
 「その――“奴”とは、タキオン以外では通信できない。問題はどうやったらタキオンで意志の疎通ができるかだな。それに…言葉がわからん」
 ヒーリィが呆れたように言った。
 「あなたの言うように、あれが生物だとして…。あんなものの、善意が期待できるというんですか?“奴”は本田さんを自分の中にとり込んで、死んでいくところを観察しているんですよ。まるでモルモットのように。しかも、何度も何度も。あれは…悪魔です」
 ヒーリィの口調は最後の方へ行くとヒステリックな感じを帯び始めていた。
 「悪意じゃないんだ。多分、我々が知能のある存在と認められていないのだと思う。だって“奴”は――ずっとひとりぼっちだったんだから」
 私はヒーリィに言った。もちろん、彼の爆発は止まらなかった。
 「悪意があろうとなかろうと、“奴”のしている事は許せない。あなたはそう思わないんですか!」
 「思うさ。思うから、送り返してもらうにはどうすればいいかを考えているんだ」
 「私は、奴を早く破壊してしまいたいですね」
 ヒーリィがそう言って、会話を打ち切った。
 エミーが私に言った。
 「“奴”と会話できる可能性はあるの?」
 可能性があるなら試してみたい、そうエミーは思っている筈だ。私はそう思った。
 「できるとしたら、タキオン転送で物質を送りこむ事だ。信号を送っても、多分何もおきない。だが、今食料が転送できた事からしても、物質を転送する事は意味があるようだし」 この方法で、本田氏と通信することはできる。しかし、“奴”本体とは、どう通信すればいいのだろう?
 「問題を戻しましょう。食料を送り続ける件については?」エミーが全員に尋ねた。
 「送り返してもらえる可能性だってある。それに、本田氏を死なせる権利は我々にはない」
 私はそう主張した。強く異存を唱える者はいなかった。ヒーリィが転送機室に連絡を取った。
 「奴と、とは言わず、本田氏とでも連絡を取る方法を確保したいな。紙に何か書いて送りこんで筆談する以外に手はないだろうか」
 私がそんな事を言った時、転送機室から緊急の連絡が入った。「本田夫人が…」そして銃声。
 我々は顔を見合わせた。「美樹、そこにいるの!馬鹿な事はやめなさい」エミーが通話機に向けてどなった。
 通話機の向こうで、美樹が答えた。
 「私、いくわ…。あそこに」
 そして、転送機を操作しているらしい音が聞こえてきた。
 「さよなら、エミー」
 「待って、美樹!」
 エミーが叫んで走り出した。だが、観測係の士官の言葉が、彼女を引き戻した。「だめです。転送機は作動しました。」
 「なんだって?それじゃ調整する暇もなかった筈だ。」ヨセフが驚いた声を出した。「未調整で転送したりしたら、転送はできても転送機がこわれちまうぞ」
 エミーはその場に立ち尽くし、「なんてことを」と言った。
 その時、「見て下さい」とヒーリィがディスプレイを指さした。
 「彼女はもう、あそこについてます」
 ヒーリィの指さす先に、本田氏に手を差し伸べる美樹の姿があった。本田氏は美樹に気付き、驚いている。すべてがストップモーションで、我々の目前に展開した。
 あの不思議な空間の中で抱き合うふたりを我々はじっと見ていた。
 「よかったわね」と、エミーが言った。「よかったわね、美樹」
 「もう彼女は帰って来れないかもしれない」私はそうつぶやいた。
 「それでも、いっちまうんだからな。女ってのは怖いよ」とヨセフが私の方を見て言った。
 エミーは私達の声が聞こえないかのように“奴”の中の二人を見ていた。
 二人は抱き合い、お互いの顔を確かめあっていた。「なぜ、どうやってここへきたんだ?」と本田氏が美樹にきいているようだ。
 だが、その時、異変が起こった。
 「“奴”が発光しています!」
 ディスプレイの上に、確かに発光現象が認められた。光はぐんぐんと強く、しかも赤っぽい色から白く、そしてブルーになっていった。黒体輻射のスペクトルだ、と私は思った。しかもその温度はどんどん上昇している…。
 「何が起こったんだ?」艦長が怒鳴った。光があまりにも強く、ディスプレイが青一色になり、我々を照らした。
 「爆発するの?」
 エミーに問われたものの、何が起こったか、理解している人間はその場にはいなかった。「わからん、逃げた方がいいかも」そう言う私にもなんら自信はなかった。
 「緊急加速!」
 艦内に警告メッセージが響き渡った。艦長が素早く決断したのだった。
 慣性消去が働く時の軽い酔いのような感覚が襲った後、発光する球体は急速に我々から離れていった。あっという間に亜光速に達したらしく、その色がドップラー効果によって再び赤く染まっていった。“奴”自身も我々から離れる方向に加速していったようだ。
 おそらくは錯覚に違い有るまい、記録した画像には残っていなかったから…。しかし私には、去って行く光の中に、しっかりと抱き合う二人の姿が見えた。

 タキオン通信網は無事回復した。その後、事故は起きていなかったが、あの空間をそのままにしておくわけにはいかない。“バラード”はいったん帰投したが、すぐに追跡部隊が編成されることになった。
 「あなたなら、自分の奥さんがああなったとして、後が追える?」
 破壊されてしまったタキオン転送機を積み替え、機材と燃料を満載して今果てしない追跡の旅に出ようとしている“バラード”を見ながら、エミーはそう言った。急に大学をやめる訳にもいかず、私は追跡部隊の積み残しになってしまった。
 「わからないな。簡単には。結婚もしてないし」
 「そうよね」エミーは溜息をついた。
 「私には、追えない。昔はあんなに好きな人だったのに」
 「それは別に不思議じゃない」私はそう言って、エミーの顔を見た。泣いているのかと思って。もちろん、泣いてなどいなかった。彼女が泣き顔を見せたのはあの時だけだった。エミーはこっちをむき、言った。
 「わたし、ふられた時には美樹の事をうらんだもんだったわ。何だ、あんな女、って。でも今回で判った。あの人には勝てない」
 「そりゃ、四年間夫婦をやっていた人には勝てないよ」そう言った後、まずかったかなと私は思ったが、エミーは全く気にしてはいなかった。
 「それをどうしてもっと早く気付かなかったのかな、と思っているわ」エミーはつけ加えた。「今は、ね」
 私はこのような会話の流れを少し苦手に感じた事もあって、話を変えた。
 「その、美樹さんの心が、“彼”を動かしたのかもしれないな」と。
 「なぜ、“彼”が逃げたのか、わかる?」エミーが静かな口調で聞いた。私たちはいつの間にか、“奴”ではなく、“彼”と呼ぶようになっていた。
 「自分が何をしたのか、悟ったんだ。“彼”は。子供が悪戯を見付けられたような物だろう」
 もっと正確に言えば、自分が好奇心でひねくりまわしていた物が何であったか――自分が引き裂いた物が何であったか。自分の体内での二人の出会いを見、それを感じたのだろう。もしかしたら、“彼”は二つの生物のコミュニケーションというものを初めて見たのかもしれない。
 “彼”――ひとりぼっちの空間。100億年以上孤独だった、おそらくは宇宙で一番古い生き物。
 あれほどの力を持ちながら、“彼”もまた神ではなかった。むしろ赤ん坊のようにおもちゃで遊んでいただけの存在だったのだ。自分のおもちゃが自分と同様に物を考え、“生きる”存在である事を気付いた時、彼は何を感じたのだろうか? ほとんど狂いかけた女の心が、“彼”――あの不思議な空間を動かした。自分も生命を持ちながら生命の意味を知らなかった“彼”。いきなり、生命だの意識だのという概念を理解する羽目になった“彼”は…いったい何を考えたのだろう?
 彼は結局、おもちゃをほり出して逃げていった子供に過ぎない。
 私は、そんな事をエミーに話した。
 「そうかもね」
 「“彼”が狂ってなければいいんだが」
 私の言葉にエミーは笑った。
 「本当に“彼”が無垢な子供なら、狂わないわ」 そうかもしれない。
 「だけど、本当に恐れるべきは、“彼”に狂うほどの心があるかどうかね」
 「どういう事だい?」
 「貴方が今言った事、しょせんは人間の偏見かもしれないという事よ。あまりに“彼”を擬人化しすぎてないかしら?」
 「そうかもしれない」
 今度は口に出して、私は同意した。
 “彼”は我々の考えるような意味での生物とは全く違う。彼が私達――正確には本田と美樹の二人から何を感じたのか、感じる事ができたのか、我々にはわからない。
 「何にでも人間のような心を求めるのは、愚かな感傷かもしれないな」
 あの「逃げる」という行動の本当の意味も、わかったものではないのだ。
 話しているうちに、私がこの船をはなれる時間が来たようだ。考え込んでいる私に向かって、エミーが明るく言った。これまで見た中でも最高の笑顔を見せて。
 「できたら、今すぐ、一緒に来て欲しいところだけど」
 私もエミーに向かってにっこりと笑った。
 「あとで追い駆けるさ」
 「タキオンになって?」エミーはにこっと笑うと、「“彼”の裏側に回り込んで待ってるわ」と言った。
 「ひどいな。今度は私で実験するのか?」
 「しっかり内部からのレポートを頼むわ。2階級特進は約束するから…ね。及川中尉どの」
 「それも悪くないな」
 エミーは不思議そうに小首をかしげた。
 「本気?」
 「うまくいけば、永遠の生命が得られるんじゃないかな?―それにいろいろ知る事ができる」
 「私は嫌だわ。まだまだ煩悩があるから」 仏教用語をよく知っているな、と言おうとした途端、エミーはくすりと笑うとさっと手をあげ敬礼し、「じゃ」と言った。エミーは床を軽く蹴ると、無重力地帯の中を漂っていく。はしけの窓から、ヒーリィが敬礼しているのが見えた。ヨセフは相変わらずプログラムをいじっているのだろう。
 私も不細工な敬礼をし、彼等を見送りながら考えていた。いずれ私達は“彼” と対話することができるようになるだろう。例え愚かな人間の感傷と言われようと、私はそう信じている。
 宇宙の始まりを記憶しているであろう“彼”から我々はどれだけの情報を得ることができるだろうか?
 私は不安を感じながらも、そしてそれを愚かなことだと感じつつも、期待せずにはいられなかった。
 “彼”と人類は、いい友達になれるだろうか――と。                      

<Fin>

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