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『火星への長い旅』 

      前野[いろもの物理学者]昌弘

 「よし、やってくれ」
 「OK」
 外にいる研究員からであろう、力強い返事が戻ってきた。これで火星にタイムラグなしに着く、と内海は思った。ゴン、と響く音が聞こえると、転送機の壁が消えた。
 内海はぽかんとして壁を見た。転送機の堅い壁のあった部分が、漆黒の闇になっている。そこには、まったく何もないのだ。
 「そんな、ばかな・・」
 内海の計算によれば、全くタイムラグなしでゴビ砂漠の加速器センターから火星へ転送される筈だった。火星で待ち受けている転送機の受信機の壁が目の前に現われ、そこにいる友人の大沢たちがドアを開いて内海を迎える筈だったのだ。それが、世界初のタキオン転送実験が成功する瞬間になる…。
 失敗か…そんな、ばかな…内海は不安の渦巻く頭の中で、5年前にタキオン相互作用の研究発表をした時の事を思い出していた。

 「つまり、タキオンを使っても時間旅行はできんわけだな」
 教授のジーメンスが言った。
 ふん、つい1年前はタキオンの存在自体を信じなかった石頭が随分進歩したもんだな、と内海は思った。しかし、そんな様子を見せず、説明を続けた。
 「そうです。タキオンは超光速で走ります。一般にタキオンがあれば時間旅行ができる、と言いますがこれは厳密には正しくありません。ある座標系でのタキオンの過去から未来への運動は別の座標系から見ると未来から過去への運動に見える、と言うべきです」
 そう言いながら内海は一枚の図を書いた。
 「光円錐はこのようになります」と言いながら内海は45度の傾斜を持つ線を書き入れた。これが光の進む道だ。
 「座標系Aでは“同時”はこうです」と言いながら内海は図に水平線を引っ張る。「しかし、Aに対して運動している座標系Bでは…」内海は斜めに傾いた線を引いた。「これが“同時”です」
 内海はさらに図の上に点をうち、C、D、と書き込んだ。
 「このC点とD点は、座標系AではCの方が未来にあります。しかし、座標系BではDの方が未来にあります。タキオンは光速より速く走るのでCからDへ、またはDからCへと運動する事ができます。今座標系Bにいる人がCからDへタキオンで信号を送ったとしますと、座標系Aにいる人はそのタキオンが未来から過去へと走ったように感じるわけです。つまり、どちらが原因でどちらが結果か、決定する事ができなくなりそうです」

 


 ジーメンスがふむ、と肯いた。内海は続けた。
 「しかし、先程説明したような相互作用をするタキオンは――黒体輻射時間で見れば――かならず未来へ向かうのです。たとえ別の座標系で見て時間の順序が逆転して見えようと、どちらが原因でどちらが結果かは黒体輻射時間で決まります。」
 「タキオンも、黒体輻射時間で見れば決して過去に戻ったりすることはない、という事だな。物事の因果関係は常に黒体輻射時間で語られる、と。それなら因果律は守られる」ジーメンスはどうだ、わしの言った通りだろうが、と顔をした。「たとえタキオンがあろうとも、因果律は守られる筈だ。私は確信していたよ」
 あんたが確信していたのは、俺のような若造にこんな発見ができる筈がない、という事だろうが。『おいおい、この若いのは因果律を破っても平気らしい。物理屋も変ったもんだな』と大声で笑いながら言って、俺の話を聞こうとしなかったのは誰だ、と内海は思った。
 「結局、黒体輻射時間という一種の“絶対時間”が設定できたおかげです。特殊相対論の結論である同時の相対性が宇宙の境界条件で破られるかもしれない、というのは20世紀の頃から指摘されていましたからね」
 宇宙を包む3度Kの黒体輻射は、確かに地球に対し運動している。そのドップラー効果はよく知られているのだ。これは一見、奇妙なことである。逆に言えば、この事実は黒体輻射のドップラー効果の消える座標という、宇宙にとって特別な座標の存在を意味しているからだ。その座標を黒体輻射座標と呼ぶ。このような座標の存在は一見、相対論の否定のように思える。相対論は絶対的座標を否定した筈だったからだ。だが、この座標を規定するのはビッグバンという宇宙初期の初期条件である。宇宙が一点で始まるという初期条件が相対論を壊してしまうのは仕方がない。特殊相対論は宇宙の境界条件まで考慮して立てられたものではないのだから。
 まさにこの境界条件のおかげでタキオンが時間を遡行する事のない理論を作る事ができる。その理論、すなわち内海の理論によれば、タキオンはかならずこの座標における“未来”に走る。これも、宇宙の大きさに限りがある事、宇宙が閉じている事を思えば、不思議なことはない。その中を超光速で飛ぶタキオンの波動関数が、宇宙全体の形の影響を受けるのは仕方ない事だ。
 その理屈もあんたにはわからなかったんだ、老いぼれ、と内海は思いながら、にこやかに説明を続けた。
 「うむ。だがそれも、綿密な計算があって始めて言えるんだ。1年前に発表していたら、世間に信じてはもらえなかったろうな」ジーメンスは自分がこの研究の発表を遅らせてしまった事を正当化しようとばかりに言った。「これで立派な研究になった。この形の方が発表する君だって気持ちがよかろう、え」
 そう、ジーメンスを納得させるのに必要だった1年の間に、内海はタキオンが絶対に黒体輻射座標で過去にむかっては飛べない事を具体的に示す事ができた。この結果なしにタキオンの相互作用がありうる、という研究結果だけを発表していたら、世の物理学者の多くから、因果律をどうしてくれるんだ、という嘲笑を含んだ批判を受けるのは避けられなかったに違いない。
 そのかわり、トポフに先を越されもしなかったろう。すでにノーベル賞を受賞していたトポフには、変な事を言って世間にあきれられまいかという不安も、下の人間の言う突飛な事は全部計算間違いの産物にしてしまう上司もいなかったのだから。内海は、ジーメンスに言われるままに発表を見合わせてしまった自分を一生後悔するだろう、と思った。
 そんな思いを隠しながらも内海は、「そうですね。これで心置きなく発表できます。トポフのようにアイデアだけじゃありませんし」と言った。当然ながら、ジーメンスはその皮肉を皮肉と取らない。
 「その通りだ。厳密な裏付けがあってこその理論だよ。トポフの論文の方が先に出たとはいえ、君の業績は色褪せるものではないよ」
 どこまでのーてんきにできていやがるんだ、この怪物爺め、と内海は思った。
 内海がなんとかしてジーメンスの鼻を明かしてやりたい、と思うようになったのはこの頃からだった。

 内海の発表したタキオンの相互作用についての論文はそれから五年の間に随分有名になった。特に宇宙初期にタキオンの相互作用があったとすればインフレーション理論が不要になる事(インフレーション理論の目的は宇宙の均一化の説明だが、超光速で情報を運ぶタキオンの存在ほど、それにうってつけのものはない)に気付いた宇宙論屋の一党が“タキオン初期宇宙論”を完成させた事は大きかった。同時に、高エネルギーでのみ実現される状態ではタキオンが相互作用できる事も実験的に確かめられた。内海はしかし、その五年間、ジーメンスの研究室で助手をやりながらくすぶり続けていた。タキオンの発見の栄誉は実験屋に、その理論の形成の栄誉はトポフに行ってしまった。内海の研究は一部でしか評価されていない。事実と違い、トポフの後追い研究の一つ、と見られているせいである。
 やっと見つけた就職先は、火星だった。火星ではその赤道を一周する巨大加速器“マルスの指輪”を使ってのタキオン発生の実験をやっていた。地上での実験に比べて充分以上に大きなエネルギーで実験ができるので、実験屋たちは大いに期待をかけている。理論屋である内海にとっては、火星へ行くのが実験屋にとって程、いい事かどうかはわからなかった。しかし、ジーメンスのそばを離れ、自分の研究室が持てるだけでも充分だと内海は思った。不自由であろう火星の暮らしも、それを思えば苦にはなるまい。
 ただ一つ、ついにジーメンスの鼻を明かせなかったのが心残りだ。ジーメンスは今ではまるで自分が内海にヒントを与えて研究を行なわせたかのように他の研究者に吹聴している。もちろん、わかってくれる人はわかってくれるが、そうでない人は内海の功績を過少評価しているに違いない。それを思うと腹が立ってしょうがないのだ。だが、これでもう奴のそばからは離れられる。世間にはこれからの仕事を見てもらえればいいさ、と内海は思っていたのだ。

 そんなある日、実験屋と理論屋の共同で行なわれた研究会でジーメンスが言った言葉が内海の胸にある「計画」を作らせた。
 「転送にタキオンを使うって?そりゃ不可能さ」
 ジーメンスは誰かの言った質問に、例によって尊大な断定を持って答えた。
 「転送機はデリケートな機械だ。今だって1メートルの距離でも、電波で送るとエラーが多くて、まともな物質が転送されないというじゃないか。まして、高エネルギーでしか発生も相互作用もしないタキオンでは、話にならん。絶対、不可能だ」
 「将来的には…」
 「無理だ」
 また口を開きかけた自分より若い質問者ににべもない調子で答えているジーメンスを見て、内海は怒りがこみあげてきた。どうせもうすぐいなくなる身、との思いも手伝ってか、この時内海は横槍を入れた。
 「タキオンの方が簡単かもしれませんよ」
 何だと、とばかりにこっちを見たジーメンスに、内海は言った。
 「タキオンは、高温の、非ラマコフ相の空間でしか相互作用できませんからね。通常の空間を飛ぶ間は何者にも散乱されないのですから、電波より有利です。問題は、転送通信の際にタージオンからタキオンへの変換が必要になることですが・・」
 我が意を得たり、とばかりに目を輝かせた質問者に、内海はにっこり笑ってみせた。質問者は興奮気味に言った。
 「でも、タージオンからルクシオン、つまり光子への変換と基本的に同じです。むしろタキオンの方が光子よりバラエティに富むから、転送の為の翻訳は容易になります。実際、タキオンによる転送機はあきれるほど簡単に・・」
 「くだらん。物理的センスというものがないのかね、きみらは」ジーメンスが一喝した。「タキオンに信号を載せるのは無理だ、絶対に」
 何でそんなに自信が持てるんだい、大将、と思いながら内海は座った。畜生、タキオン転送を実際に実現したら、奴がどんな顔をするか楽しみだ、と思いつつ。
 その研究会の終了後、その発表者の大沢が内海を尋ねて来たのだった。『タージオンからタキオンへの量子転換とその利用としての転送機』という題の論文を抱えて。

 大沢は実験畑の人間であり、内海より一足先に火星に赴任するという。その夜、二人は実験棟の一室で呑みながら、いろいろな事を話した。かなりの部分がジーメンスの悪口になったのは当然だったが。
 その間に内海は、大沢に豊富な人脈があること、彼の考えるところのあきれるほど簡単なタキオン転送機を実際に製作できる手筈もととのえてあること、を聞いた。
 もちろん、ここ、ゴビ砂漠加速器センターと火星をつなぐタキオン通信の技術はもう確立されつつあったのだから、技術的飛躍がそうあるわけではない。だが、このセンターではその実験は不可能だ。理論/実験の両方を統括して管理している人間が他ならぬジーメンスだからだ。火星でなら、あるいは、と大沢は思っている、という。だが、内海の思いはもっと激しかった。そんな悠長なことを言わず、今すぐにも奴の鼻を明かせたい、そう思っていたのだ。内海はやがて、自分自身を火星へ転送する実験をこっそり成功させたら、いったいジーメンスはどういう顔をするだろうか、とそんな事を考え始めた。

 奇跡のように手筈は整った。大沢の友人の実験屋たちは、地球と火星と両方で、秘密裏にタキオン転送機を製作してしまったのだ。幸い、転送器の実験を行なうグループは双方にあり、転送機自体もどちらにもあった。彼等の仕事はそれをタキオン用に改造するだけだ。受信、送信には巨大加速器でのみ可能な高エネルギーの状態が必要で、特に受信側は地球上のどの加速器でも不可能なほど広範囲にわたって、その高エネルギー状態が分布していなくてはならない。しかし、それには不自由しない。いや、それができる場所は火星しかなかったのである。
 今の地球と火星の位置では、たとえ危険を犯して電磁波による転送を行なったとしても15分かかる。タキオンならそれは一瞬である。転送機に入る直前にジーメンスに顔を見せておけば、ジーメンス自身がこの実験成功の証人になってくれるわけだ。すべての準備は完了し、内海は出発した。転送は一瞬で行なわれ、内海の前に火星で待っている大沢が現われる筈だった。

 では、このざまは何だ、と内海は思った。
 火星の受信機が俺を載せた信号を受信できなかったのだろうか……タキオンになったまま、飛び続けているのだろうか?
 だとしたら、永遠にこの部屋にとじこめられたまま、タキオンと化したまま飢え死にするしかないのだろうか、と内海は思った。この宇宙でタキオンを受信できる状態になっている処など、おそらくは火星以外にない。どこかの宇宙人が同様の実験をしていたとしても、内海の情報をのせたタキオン波がちょうどその受信機にあたる確率なんてゼロに等しい。
 何を間違ったのだろう?
 送信の方向か?
 内海は激しく自問自答を続けた。
 タイムラグなしの場合の火星の方向に送信できるよう、正しく計算した筈だ。そこには絶対の自信がある。だからこそ、大沢がとめるのもきかず、自分を最初の実験台にしたのだ。必要な電力からして、この実験を隠したまま終了することはできまい。チャンスは一度だけだ。なら、インパクトの大きい人間の転送を行なう方がいい。でなくては、ジーメンスの鼻を明かすことなどできるものか。
 だが、現実はこうだ。今頃、火星では大沢たちが事故の発生に気付いて、大騒ぎになっているだろう。もう5分たっている。もっとも、大沢は「送信しなかったのか?」と地球に問い合わせるだろう。その答えが戻って来るのは半時間先だ。本当に心配し始めるのはそこからだろうが。
 いかなる間違いがそこに介在したのかはわからないが、俺の命運は決まった、と内海は思った。もうここから逃れる方法はあるまい。俺はもう、タキオンに変換されて飛んでいる最中なのだから。
 それにしても、タキオンに変換されてもこのように思考ができ、呼吸ができるのは不思議だった。もともと転送機は物質をコードに置き換えるのではなく、その波動関数そのものを別の表現、この場合はタキオンによる表現に変えるだけだ。タキオンになっても、正しい表現である以上、同様に時間の経過を感じられるのだろうか。
 では、転送中も時間が立つのだ。これは誰も考えなかった事だぞ、と内海は思った。
 電波による転送の時は、最大でも1メートルくらいの距離の転送だから、どっちにしろ時間の経過などわからなかった。それでさえ雑音がひどく、腕時計を動かしたまま送る事ができなかったのだから。
 今無限の速度を持つタキオンにのっているのだから、火星までの旅も一瞬で終る、そう内海は思っていた。しかし、この闇に閉じ込められてから、もう10分近くがたっている。
 このまま宇宙の果てまで飛んで行くのであろうか。
 いったい、今どのあたりにいるのだろう、と思った途端、内海は自分の考えの矛盾に気付いた。無限大の速度を持つタキオンになっているのなら、宇宙の果てにつくのだって一瞬ではないか。では、いったい今俺はどこにいるのだ??
 無限の速度を持ったタキオンである以上、出発した時間と同時刻にしかいられない。つまり、時間がたつ筈がないのだ。
 なら、この時計が刻んでいる、出発してから13分という時間はなんだろう?
 外から見た時間と、超光速で動いている物体内部の時間は違うのだろうか・・・。
 ちょうど、相対論の時のように。
 内海は人生が終らんかとしている今でも科学者たらんとしている自分に苦笑した。こんな羽目になったのも、科学者らしからぬ復讐心のせいだというのに。
 だがその次の一瞬、まさに一瞬にして疑問が氷解した。
 いわゆる、空間的に静止している人間は自分の固有時間15分の間に時間軸方向に15分を移動する。空間の方向へは移動しないが、時間の方向へと移動するのだ。
 だが、タキオン転送中には空間の方向にのみ移動し、時間の方向には移動していない。空間の方向に15光分移動しなければ、火星につかない。15光分空間移動すれば、静止している人間が15分の時間を移動するのと同じ4次元的距離を移動する事になる。15分と15光分は4次元的には時間的、空間的の違いはあれど同じ距離なのだから・・。
 つまり、外から見て一瞬でも、内部の時間でみれば15分かかるのが当然なのだ。
 そんな簡単な事もわからなかったとは、なんと愚かな事だろう。復讐心が如何に心と頭を歪ましていたか、内海は今こそ理解した。と同時に、さっきまでの自分のうろたえぶりがおかしくてしょうがなかった。15分待たなくてはいけないのは理論的に当然の事なのに。
 内海は時計を見た。ジャスト15分。
 その時、内海の前から漆黒の闇が消え、転送機の壁が現われた。さっき見た壁ではない。火星にある受信機の壁だった。

 ドアが開き、大沢たちが歓喜の声で内海を迎えた。
 近寄ってきた大沢が聞いた。
 「君は歴史上、もっとも速く地球から火星へ移動した人間だ。気分はどうだい?」
 内海はにっこりと笑い、答えた。「どんなに長い旅だったか、君にはわかるまい」と。

<Fin>

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