授業の始めに、この授業でどんなことをやるのか、どうしてそんなことを勉強しなくてはいけないのか、という点について、ざっと述べておく。
この授業の内容は名前の通り「相対論」である。相対論には特殊相対論と一般相対論があるが、ここで扱うのは特殊相対論の方である。「特殊」とつくから難しいと思ってはいけない。たいてい物理では「一般」とつくものの方が難しい。「一般」なものは解くのが難しいので、問題を「特殊」なものに限って解きやすくするのは、物理の常套手段である。相対論の場合も同様で、特殊相対論の方が圧倒的に簡単である。
「相対論」というのはどのような学問なのか。「相対」の反対は「絶対」である。相対論は「絶対」の否定として生まれた。この場合の絶対とは、ニュートンの言う「絶対空間」「絶対時間」の「絶対」である。ニュートンはニュートン力学を作るとき、宇宙には基準となる座標系が存在していると考えて、それを絶対空間と呼んだ。
ニュートンより少し前に、地球を中心とし、太陽がその回りを回っているという天動説から、太陽を中心とし、地球がその回りを回っているという地動説への変換(コペルニクス的転換と呼ばれる)があった。これは、当時の人が考えていた「絶対静止」の原点が地球から太陽へと移動したことに対応する。今では太陽は銀河系に属し、銀河系は回転しているし、さらに銀河系全体もグレート・アトラクターと呼ばれる大質量天体に向かって落下していることもわかっている。もはや絶対静止の原点は太陽ではなく、銀河系ですらない。いやそれよりも、「絶対静止」などというものを考えてはいけない。むしろ、
世の中に「自分は絶対静止している」と主張できるものなどない
というのが相対論の主張である。
ちょうど昨日、小学生の4割が「太陽が地球の回りを回っている」と答えたという話を読んだばっかりだったので、「もし君の目の前にそういうことを言う小学生がいたら、どうやって教えてあげる?」と聞いてみた。「星の位置を見るとわかるとか、そういうことかなぁ」という感じの答えが返ってきた。確かにそれでいいのだが、ほんとに小学生に教えるのならもっとていねいでないと困るだろうな。
もう一つ、「地球の自転の証拠って何かわかる?」と聞いてみたら、ちゃんとフーコーの振り子を答えてくれた。ちょっと脱線して「もし地球の自転が1分に1回だったら、自転していることももっと直観的にわかったかもね」と話したが、そうならそうでそういう世界向けの力学法則がまず作られてしまって、ニュートン力学が作られるまでかなりの紆余曲折が必要だったかもしれない。
ここで、「宇宙で静止しているものは何かが判定できるか」ということを考えてみよう。
話を簡単にするため、宇宙には地球とその表面の物体しかなく、地球は自転も公転もしていないとしよう。この孤独な地球の上にあなたが住んでいて、今電車に乗っているとする。電車が加速も減速もせず曲がりもせずにスムースに走っている時、電車の中であなたがする行動(本を読んだりあくびしたり、あるいはすいていればキャッチボールだって)は、家の中での行動と同じように、何の支障もなくできるはずだ。 電車が揺れている、などと言うなかれ。それは加速減速のうちだから、今はないとしている。この現象を「宇宙が止まっていて、電車が等速運動している」と考えることもできるし、「電車が止まっていて、宇宙全体が逆向きに等速運動している」と考えることもできる。どちらで考えても、電車内で起こる物理現象は同じである。つまり、どっちが静止しているのか、判断する方法はないのである。
ここでちょっと、息子が「俺が星を動かしている!」と叫んだ話をして息抜き。よく考えたらこの話は相対運動の話じゃないので、ここで使うのは適切でなかったかもしれぬ。
ここで、「でも電車はモーターで動かしているが、だれも宇宙を動かしてないではないか」と思う人もいるかもしれない。だがそう思った人は、絶対とか相対とか言う前に、ニュートン力学の理解が足りない。物体が動くのに、力はいらない。物体の運動を変化させる時(加速度がある時)に力が必要なのである。だから宇宙の全てが整然とある方向に等速運動している限り、誰も力を出す必要はない。整然とある方向に等速運動している宇宙の中で、宇宙と同じ速度で動いていた(ということはつまり「駅に停車していた」ということだ)電車が止まる(ということはつまり、「宇宙に対して動き出す」ということだ)ためには力が必要なのである。もちろん現実の電車においてはまさつ力という「運動を妨げる力」が存在しているので、等速運動を続けるためにはモーターが力を出す必要がある。しかしこれは電車が止まっていて宇宙全体が動くという考えても同様である。動き続ける宇宙からまさつを受けて動き出したりしないように、電車を止め続ける力をモーターが出しているのだ、と解釈できるのである。
ついでなのでここで、「地球が太陽のまわりを回っているというけど、動かしているのは誰ですか?」という古典的な質問をしてみた。「太陽です」という答えが返ってきたが、これは違う。太陽は、地球が飛んでいかずに円運動を続けるために必要な引力を出しているだけである。実際には最初に持っていた速度をそのまま(太陽のせいでぐるぐる回らされてはいるが)持っているだけ。「地球を誰が動かしているのか」という質問はそもそも「動くには力が必要」というアリストテレス的考え(下を参照)であって、それは間違っている。「誰かが動かす必要はない。最初動いていたから今も動いている」というのが正しい。
これは運動方程式が
(力)=(質量)×(加速度)
という形になっていることが効いている。これを少し書き直すと、
(力)×(時間)=(質量)×(速度の変化)
である。
ちなみにアリストテレスの運動方程式(とは呼ばれていないが)は、
(力)=(質量)×(速度)
である。もし力学の法則がこうだったら、相対性は成立しない。「動いている方」は常に「力が働いている方」ということにになり、判断できてしまう。もちろん、この式は間違いなので、相対性は成立する。
速度はわかるけど、加速度ってどうやって測定するんですか?
加速度は1秒あたりに速度がどれだけ変化しているか、という量だから、速度が測定できるんなら、時間がたった後の速度と比較することで計算できます。そういう意味では、速度も1秒あたりの移動距離として測定していると思えば、考え方は同じでしょ。
地球静止説に立っている人が
静止している電車(質量m)のモーターがFの力をΔt秒間出した。電車の速度はV=FΔt/mになった。つまり、
F Δ t = m (V-0)
という式が成立している。と解釈する現象を、地球運動説にたっている人は
地球も電車も、最初-Vの速度で走っていた(マイナス符号は逆向きを表す)。電車のモーターはFの力をΔt秒出したので、電車は静止した。
F Δt = m ( 0 -(-V))
という式が成立している。と解釈する。どちらの解釈も、どこも間違ってはいない。この二つの記述は等価である。だから、どちらを正しいかを判定することはできない。どちらも正しいのである。
電車が2台あって、逆向きに発車した場合はどうなるんですか?
その場合、3つの立場で考えることができる。「電車Aが止まっている立場」「地球が止まっている立場」「電車Bが止まっている立場」。電車Aが止まっている立場では、電車Bは2倍の速さで動いていることになる。
電車Bは自分はたいして加速してないのに速度2vを得ることになって、すごいですね。
まぁ確かにすごい。電車Bはエネルギー1/2 m(2v)^2で、2mv^2のエネルギーを持っていることになるからね。これに対して、地球が動いている立場だと、電車は1/2mv^2×2でmv^2しかエネルギーを持ってない。この差はどこから来るか、わかるかな?
???
最初の状態を考えてみるとすぐわかる。
最初から動いているからですか?
そう。電車Aが止まる立場では、最初電車Aも電車Bも速さvで動いているから、最初のエネルギーがmv^2なんだ。mv^2が2mv^2になったんだから、増加量はmv^2でしょ。エネルギーで大事なのはエネルギーそのものの値じゃなくどれだけ増加/減少したか、だから、どの立場もエネルギー的にも同じ現象になっているということになる。
天動説から地動説への転換の時、「太陽が動いているのではなく、地球が動いているのだ」ということが確立されるまでに長い時間がかかったことを考えてみれば、二物体が相対的に運動している時、ほんとうに運動しているのはどっちかを認識するのがいかに難しいかということがわかるだろう。なお、より厳密に言えば、「太陽・地球」系で動かないといっていいのは太陽でも地球でもなく、この二つの重心である。ティコ・ブラーエは地球が静止して太陽がその回りを回り、その太陽の回りを地球以外の惑星が回るというモデルを唱えていたと言う。これは「地球が動いているとしたら、星の位置が変化するはずだ」と考えたからである。
実際には星の位置は少し変化しているが、ティコの時代ではそれを測定することは無理だった。逆にこの位置の変化(年周視差)から、恒星の距離が測定できるのだが、それはずっと後のことである。
ニュートンは太陽でも地球でもない、絶対静止の基準となる空間があるという仮定のもとにニュートン力学を作った。しかし実際には、ニュートン力学の成立のために絶対空間の仮定は必要ない。宇宙全体が平行に等速運動していたとしても、我々には力学的にそれを知る手段がないからである。より詳細な、数式を使った考察は次章からに回すが、とにかくここまででわかることは、力学においては「絶対空間」は存在していないらしい、ということである。
19世紀終わり頃、物理学者は力学に「絶対空間」がないことには気づいていたが、電磁気学では「絶対空間」があるのではないかと考えていた。その絶対空間の指標となるものが光の媒質である「エーテル」である。光が電磁波と呼ばれる、電気と磁気の波であることはマックスウェルによって発見された。波ならば媒質があるはずであり、媒質が運動すれば波の速度は変化すると考えるのはある意味当然である。つまり、音が風下の方に速く伝わるのと同様の現象である。しかしこの「エーテルの風」を検出しようという試みは失敗し、電磁気学にも「絶対空間」がない(あるいはあっても検出できない)ことがわかった。どのようにしてわかったのか、詳しい内容は後で解説する。とにかく、絶対空間は検出できなかった。「ならば全く絶対空間などないような理論を作ってしまえ。」というのが「相対論的」な考え方である。
ちなみに、16才の頃に「光の速さで動いたら、電磁波は波の形が静止しているように見えるのか?」と疑問に思ったことが、アインシュタインが相対論を作るそもそものきっかけだったという話がある。アインシュタインはこの疑問を考え続けた結果相対性理論に達した(らしい)。
この後、電磁誘導現象の相対性についての話があるのだが、それは来週。とりあえず今回は「光の速さで光を追いかけても、光は止まったりしないんだよ〜ん」というところで謎を残して終わり。
何で光の場合は同じ速さで走っても止まって見えないのか不思議です。(同様の質問多数)
なぜそうなるのか、あるいはなぜそうだとわかるのか、という話はこの後の講義の御楽しみです。これは、理論的にこうなるというものではなく、むしろ実験からわかることです。なお、これも後の御楽しみですが、実は人間は光の速さで走ることが(どんなにすごい宇宙船が発明されたとしても)できません。
それ以上速くはならないんですか?
c(秒速約30万キロ)より速い光はみつかってません。もし見つけたらノーベル賞ものです。
波が伝わる速さが同じというのはどんな波でも言えることですか?
いいえ。例えば音だと、観測者の運動で変わってきます。
光の他にもそういうふうなものがあるんでしょうか?
光の他には、重力波が常にcで走ります。前はニュートリノもそうだと思われていました。
グレートアトラクターって何ですか?(二人)
宇宙にある銀河の運動を調べてみたところ、我々の銀河を含めて周囲3億光年ぐらいの銀河が、地球からケンタウルス座の方向に約2億光年行った場所に向かって運動していることがわかりました。だから、ここに何か巨大な天体があって銀河を引き寄せているのではないかと考えられています。ただし、この方向は観測しにくい方向なので、何があるのかはわかっていません。この謎の天体をグレートアトラクターと呼びます。
地球が回っているかどうかわからない時代に、公転半径も分からないのに角度だけで距離がわかるんですか?
これは年周視差に関する質問ですが、もちろん地球が回っているとわかってからでないと星の見える角度が変わっていることを距離に結び付けることはできません。恒星の距離が測定されたのは地動説が確かになった後です。もし私がそこを誤解させるようなことを言ったのならごめんなさい。ただし、太陽と地球の距離に関しては地球が回っているかどうかわかる前からわかってます。なんと、ギリシア時代にすでにある程度分かっているのです。
もし音と同じ速さで走ったら、声はずっと聞こえるんでしょうか?
音は空気の振動(粗密波)です。この粗密状態が耳の鼓膜を押したり引いたりするから音が聞こえます。音と同じ速さで走ったら、空気の粗密状態はいつも同じです。つまり、音は聞こえません。もし進んでいく音を後ろから超音速で抜かしたら、たぶん逆回しの音が聞こえるでしょうね。
ガラスの中だと光の速さが変わるのは、なぜ?
いろんな説明の仕方があります。(その1)光は電気と磁気の波ですが、波の速さは、振動している物体の戻ろうとする力と、振動している物体の慣性(重さ)で決まります。ギターの弦を強くはると、振動が速くなって音が高くなるのと同じです。ガラスの中では誘導分極によって電場が弱くなるので、その分遅くなります。(その2)ガラスを作っている物質も電気を持っているので、光すなわち電磁波がくると振動を始めます。そして振動した電気が新しい波を作ります。この波と元からあった波が重なることで、位相が後ろにずれて、光がおそくなります(くわしい計算はちょっと難しい)。
力学と電磁気学を勉強しなくてはと思った(同様のコメント多数)
当然です。この二つは全ての物理の基本です。相対論でも量子力学でも統計力学でも。
小学生の疑問に答えるのは難しいと思う(同様のコメント多数)
とっても、難しいです。でも時々は「子供の素朴な疑問」に立ち返って物理を考え直すことが大事です。「そのことについて全然知らない人に説明できるようになった時」がほんとうの意味で何かを理解できた、という状態だと思います。